1914年9月、3人の美術学生、田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎によって刊行された木版画と詩の作品集『月映(つくはえ)』。
心の内面を見つめ、しずかに映しだすように生み出された珠玉の作品を、刊行から110年となるのを記念して一堂に展示します。

 
◆ただひとつ残された私輯(ししゅう)『月映』
『月映』は、大正期の思潮を代表する文芸美術雑誌『白樺』や竹久夢二の『夢二画集』を刊行したことで知られる出版社、洛陽堂から200部程度が7集まで出版されました。田中・藤森・恩地は、その公刊前の準備として、三人で作品を持ち寄り、たとうで包んでまとめた私家版を作りました。印刷屋の機械で刷られた版画が中心となる公刊『月映』に対し、三人が自分で手摺りした私家版は、私輯(ししゅう)『月映』と呼ばれています。そして6集までつくられたこの私輯『月映』は、田中と藤森が持っていたものは失われ、恩地が持っていた1組だけが現存します。

◆私輯『月映』のノンブル
恩地が1955年に63歳で亡くなったあと、私輯『月映』のたとうと目次、作品はバラバラになっていて、もとの形は再現できなくなりました。目次に刻まれた詩情あふれる作品名には「春」「よる」「かげ」「心」「ひかり」といった言葉が三人に共通して用いられ、心の内面を表わして抒情性・象徴性・抽象性を深めていった彼らの版画は、その照合作業にさまざまな解釈を可能にします。
そのなかで手がかりとなるのが「ノンブル」(ページ番号)です。1975年に『恩地孝四郎版画集』(形象社)が刊行され、翌年に東京国立近代美術館で「恩地孝四郎と『月映』」展が開催された際には、残された私輯『月映』の目次がIからVIまでのどれにあたるか、まだ分かっていませんでした。画集において、恩地の初期作品の多くは「失題」とされ、付された作品名にも推定であることを示すマークが記されています。その後、1982年に福岡市美術館で「藤森静雄版画展」が開催された際に、私輯IIの目次と作品に活字印のノンブルが赤インクで押され、IVには黒インクで押されていることが明らかになりました。それによって、私輯『月映』の目次と構成についてあらためて検討されたのが、1987年に発表された藤井久栄氏による「資料調査『月映』再考 附『DER STURM 木版画展覧会』出品作について」(『東京国立近代美術館研究紀要』第1号)です。その間、和歌山県立近代美術館では藤森静雄の作品を恩地家から少しずつ譲り受けていました。そして1988年に、田中恭吉と香山小鳥の作品が恩地邦郎氏より一括寄贈され、その後の月映研究は、もっぱら当館が担うこととなりました。恩地の初期作品についても収集を進め、その成果として、2014年に刊行100年を記念して「月映展」を公刊『月映』の全作品も集めて国内4か所で開催しました。
10年ぶりの「月映展」となる今回、展覧会の中心となるのは私輯『月映』です。2016年に開催された「恩地孝四郎展」の準備中に、目次がなかった私輯『月映』Iの目次草稿が見つかりました。またノンブルのある作品が2点、田中恭吉《太陽と花》、恩地孝四郎《うかむ種子》があらたに確認されました。そしてさらに1点、恩地孝四郎の《あさあけ》が今年1月に見つかりました。
 
◆10年ぶりの月映展での試み 館蔵品と個人コレクションによる私輯『月映』の大胆な再検討
私輯『月映』I目次草稿と、恩地孝四郎《あさあけ》の発見は、私輯『月映』の再検討をうながすことになりました。草稿がそのまま完成されたとして、私輯『月映』の版画作品は87点(V・VIの、田中が病気の悪化のために制作できなくなり、恩地が代わりに田中の歌を木版にして収録した分を除く)。
そのうち、ノンブルがあるII、IVに収録された作品は30点ですが、実際にノンブルのある版画を確認できているのは27点です。また『月映』の前に田中が回覧雑誌『密室』に発表した木版画や、公刊『月映』で再録された作品、版木に作品名が記されているもの、桑原規子氏による研究から、作品名が判明しているのが16点。つまり現状、私輯『月映』87点のうち作品名が裏付けられているのは43点です。
10年ぶりの展覧会となる今回は、この作品名が明らかな43点の私輯『月映』を中心に、のこる44点をあらためて当てはめてみます。これまでに考えられてきた作品名をも大胆に変える機会となりますが、多くの叱責やご意見があることを予期しつつ、いまだ検討の余地が残されている月映研究の現状を示したいと思います。
このことは田中・藤森・恩地が互いに響き合うように表現の場として高め合い、生み出した『月映』の成立過程をあらためて辿る機会となるでしょう。展覧会図録は制作されませんが、この展覧会による新たな知見やご意見を取り入れ、あらためて報告する形をとりたいと思います。