【概要】
黒やグレーを基調とした濁色の非形象絵画を手がける神頭優太は、モダニズムにおける形式主義(フォーマリズム)を参照点に、線や色彩といった絵画の構成要素を即物的に扱いながら、画面が成立する条件を探求してきました。

特定の画題やイメージを描くことを留保し、意味の手前にとどまることで、絵画は表象に回収されることなく、思考の場として立ち現れます。

本展では、神頭が大学3年時に制作したドローイングの連作(100点組)を起点に、初期作品から新作までを展示します。

展覧会タイトル「また終わるために」は、サミュエル・ベケット(1906–1989)の散文からの引用です。極限まで切り詰められた後期ベケットの語りにみられる自己言及性は、何かを描くことを放棄した抽象絵画の思索のあり方を想起させます。

絵画とは何か。なぜ描くのか。

幾度となく繰り返されてきた切実な問いへの応答として本展を位置づけ、その可能性を展望します。


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【アーティストプロフィール】
神頭優太 | Shinto Yuta
1994年 兵庫県生まれ
2018年 京都精華大学芸術学部造形学科洋画コース卒業
2020年にOギャラリーeyes(大阪)にて初個展を開催。以降、同ギャラリーにて継続的に個展を開催。主なグループ展に、「トゥールビヨン16」(Oギャラリーeyes、大阪、2018年)、「Idemitsu Art Award展 2022」(国立新美術館、東京、2022年)、「ACTアート大賞展 2023」(アートコンプレックスセンター、東京、2023年)、「第42回上野の森美術館大賞展」(上野の森美術館、東京、2024年)などがある。
作家webサイト:https://yutashinto.com


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テキスト「絵画の終わり方」(平田剛志)

絵画の終わり方

絵画に「終わり」はあるのだろうか。19世紀以来、写真や映画、コンセプチュアル・アート、インスタレーションの登場などによって「絵画の死」や「絵画の終焉」が幾度も語られてきた。
具体的なテーマやモチーフをもたず、線や色彩を即興的、衝動的に描く抽象絵画を制作する神頭優太の個展「また終わるために」は、「絵画の死」に対する「諦念と足掻き」なのだろうか。だが、神頭は絵画の「終わり」ではなく、「終わり方」を探究してきたと見える。かつて神頭はステイトメントにおいて、絵画制作の「過程において到達点が想定できない」ため、「つねに制作を連続した状態」におくと述べた。その成果は、在学中に手がけた100点組のドローイング連作に見てとれる。つまり神頭にとって絵画とは、「終わり」の高揚感やスペクタクルではなく、連続、持続という「時間」や深度のなかにある。
そもそも絵画には「終わり」がない。小説やマンガ、ゲーム、音楽や映像のように、物語や時間を伴った表現形式は終点が定められている。対して、絵画をいつ見終えるのかは鑑賞者に委ねられている。作者もまた1日で描き終えることはなく、「『絵にする』と『絵になる』の間をさまよい続け」る。
では、絵画制作における「さまよい」は無駄なのだろうか。神頭は、終点への到達を前提とした計画的、経済的な制作方法をとらない。初期には余白や彩度、ストロークの痕跡が確認できた画面は、2024年頃から透明色を塗り重ねて画面全体が黒く、不明瞭になっていく。過去作のシリーズ名「暗順応」のように、混濁した画面には不透明な光が潜在している。
アテンション(関心、注意)を引くコンテンツが次々に流れる現代、静止した絵画は退屈で「終わった」と見えるかもしれない。だが、神頭の絵画には、描く行為と思考、情動が流れるのではなく、深く積み重なっている。その画面の奥に何が見えるのかは、私たちが絵画を前にさまよい、順応する時間のなかで現れてくるだろう。絵画を見ることに「終わり」はない。

平田剛志(岐阜現代美術館学芸員)