フォーカス
ビエンナーレ物語、そしてイスタンブールとテッサロニキへ
市原研太郎(美術批評)
2011年11月15日号
3──テッサロニキ
トルコとギリシャには、浅からぬ因縁がある。ギリシャ北部で国境を接する隣国同士というだけではない。紀元前、トルコのある小アジアは、マケドニアのアレキサンドロス大王の遠征の地となり、15世紀から20世紀まで、ギリシャは長期にわたってオスマン帝国の版図の一部となった。また1960年代以降、両国はキプロスをめぐって覇権争いを繰り広げた(前掲のアタマンは、キプロス紛争で心の病──国境が精神を二つに引き裂いた──を得た女性のインタヴュー作品を制作している)。
イスタンブール・ビエンナーレを見終わってすぐ、私はギリシャのテッサロニキに向かった。というのも、イスタンブールのオープンニングに続いて、テッサロニキでビエンナーレが開幕したからである。イスタンブールから飛行機で1時間半、あっという間にテッサロニキに到着した。当地のビエンナーレは今回で3回目で、非常に若い国際展である。首都のアテネでもビエンナーレが行なわれているので、ギリシャでは第一と第二の都市でビエンナーレが開催されていることになる。ところで、ギリシャは現在、財政の逼迫によって政治的な危機に陥り、各地で激しいデモやストライキが起きている。このような状況で、ビエンナーレのような文化的なイヴェントができるのだろうか? そのような半信半疑を吹き飛ばすように、事前に予定通りに行なわれているとの情報を受け取った。はたして、展覧会はつつがなく開かれていて、テッサロニキ市内は、私の滞在中まったく平穏に日常生活が送られていた。ただし、市内の所々に手書きのスローガンが書かれた横断幕がかけてあったが、残念ながらギリシャ語を解しない私には、それが政府批判の過激な文言であるのかどうか判断しかねた 。
グローバル社会の普遍的問題をとらえる
さて、今年のテッサロニキ・ビエンナーレは、総合タイトル“Old Intersections-Make it New”の下、メインプログラムの“A Rock and A Hard Place”展と、その関連企画展で構成されている。メインの展覧会のキュレーターは、パオロ・コロンボ(Paolo Clombo、過去にイスタンブールでキュレーターを務めた)、マヒタ・エル・バシャ(Mahita El Bacha)、マリナ・フォキディス(Marina Fokidis)の3人。このビエンナーレが、イスタンブールと正反対の性格をもつことは、展示作品の内容ではなく、展覧会の趣旨とその会場構成で明らかである。イスタンブールが、作品と会場をフォーマリスティックでミニマルに構成し、すっきりと見せたのに対して、テッサロニキは、作品と会場を内容重視で構成し、濃密であると感じられたのだ。最初に形式から展覧会を準備していったイスタンブールと、内容から入って出来上がったテッサロニキの相違と言えばよいか。そのテッサロニキ・ビエンナーレの内容が先導する方向とは、徹底した地元密着である。地元密着と聞けば、ビエンナーレの目的に挙げられる地域振興やまちおこしを想起させるが、テッサロニキの場合、観光資源や文化的刺激を提供することで経済的な発展に寄与するといった型通りの口実ではなく、現在の社会状況を掘り下げ、鑑賞者に思慮を迫るタイプの優れた企画になっていた。そのために、テッサロニキの歴史を遡り、古い交流の遺産を回顧することで、それを現在に生かそうとする意図がはっきりしている。ギリシャの主要都市であるテッサロニキは、現在政治的危機の渦中にあるが、過去を振り返れば、イスタンブールと同じく、さまざまな地域や民族や文化の交流の結節点として形成されてきた。危機も含めて現在の状況も、その歴史の一齣として到来しているのではないか。しかも、この都市の抱える問題は、特殊でローカルなコンフリクトというより、グローバル化した世界のどこででも出来する問題として共感されるだけでなく、誰でもが、それを解決する方策を具体的に考察することができるのである。
さてビエンナーレは、イスタンブールとは違って、美術館を含め、社会、政治、文化、歴史に根差した、由緒や意義のある、あるいは記念碑的な場所が会場として選ばれた(全16カ所)。そして、テッサロニキという都市そして会場となる特別な施設と連携させて展覧会が組み立てられた。すなわち、各会場に、これらの特殊な環境に相応しい作品が展示されたのである。会場のいくつかを取り上げ、その展示作品を紹介しながら、地元密着の証明となる緊密な関係を明らかにしてみたい。
まず美術館から。テッサロニキには、三つの現代美術館がある。そのなかのひとつ(現代アートセンター)はメイン会場であり、今回のビエンナーレのテーマを代表する作品が置かれた。まさに、揺れ動く(Rock)Hardな世界の端緒を、ここで示したのである。フランシス・アリスの《The Green Line》(イスラエル人の若者がイスラエルとパレスティナのあいだの実現されなかった国境を刻印するパフォーマンスの記録)、パレスティナ人アーティスト、アハラム・シブリ(Ahlam Shibli)の《From the Trauma series》(ナチスへのレジスタンスに参加し、その後反植民地戦争に従軍したフランス人の写真) 、また紛争を解消するために地中海連合を提唱するラシード・アライーン(Rasheed Araeen)のテキスト など。これらの作品でわかるように、社会、政治問題に鋭く切り込む表現が、今回のビエンナーレの特徴である。
次に、州立現代美術館の会場では
三つ目のマケドニア現代美術館の展示は、今回のすべての会場のなかで、現代アートの作品として一番興味深いものだった
(作品の写真の数が少ないのは、会場が非常に暗く鮮明に写らなかったため)。というのは、ラディカルな切り口で流動的で不安定な現実にアプローチしているように思われたからである。現在のギリシャの状況に代表される歴史の大きな曲り角にあって、アートがカオスと危険と可能性のスリリングな雰囲気を漂わせないとしたら、何の意味があるだろうか。その他の意味は、すべて現状追認の反動的表現でしかないとさえ言えよう。この雰囲気は、同時開催の関連企画展であるアラブのアーティストとの交流展“Roaming Images”によって 、より濃厚なものとなった。アラブ・イスラム圏のアートは、否応なく軋轢と衝突と紛争に巻き込まれている。彼らの作品に込められる絶望の嘆きとアイロニーの沈黙は、ギリシャにとって他人事ではないだろう。この美術館で、ギリシャに吹き荒れる嵐の予兆と、アラブの紛争の残酷さと、民主化の希望が交錯し反響する事態に接して、背筋に戦慄が走るのを覚えたのである。