フォーカス
美術/でないものへの目線と言葉──「石子順造的世界──美術発・マンガ経由・キッチュ行」展
都築響一/成相肇
2012年02月15日号
対象美術館
ストリートの「美術」
成相──まさしく、iTunesのようにすべてが等価に置かれること自体がキッチュなんですね。ある物体が「キッチュ」というカテゴリーに区分けされると考えてしまうと、それこそ固定化されて、消費されておしまい。でもそうじゃなくてキッチュって一種の現象なわけですよ。例えば、喫茶店の壁においてはカンディンスキーとヒロ・ヤマガタはまったく等価なものとして扱われる。そのときカンディンスキーがキッチュになったのではなくて、そうやって喫茶店の壁というメディアに並べること自体を本来はキッチュと呼ぶと思うんです。それはおそろしくもある。石子がキッチュを好意的に見ながらも一方では批判的な観察を続けていたのは、何でも等価にしてしまうメディアが当たり前のものとして受け入れられるとき、それ自体もまた排他的な権威になる可能性もあるからでしょう。
都築──iTunesで何もかも等価になるのはかっこよくておもしろいけれど、アップルに牛耳られるのはいやだ(笑)。そういうことを40年前の人はキッチュという概念で説明しようとしたけれど、40年経ってキッチュという言葉にはずいぶん色がついてしまったので、そろそろ違う言い方が出てくるのかなと。
成相──いまでは、誤解も含めてキッチュは「サブカルチャー」とほとんど同じ意味で使われてますね。
都築──サブカルチャーも古びて色がついてしまった言葉なので同じだと思いますね。この言葉だって20、30年経つわけです。だからもうそろそろ次という感じでしょう。
成相──昔青山ブックセンターに「サブカルチャー」という本棚のコーナーがあって、そこに英語で「サブカルチャー」とある下に「欲望文化」と書いてありました。すごくいい訳だと思った(笑)。「メイン/サブ」ではなくて、欲望に忠実な文化であるという解釈。
都築──やせ我慢するか欲望に忠実か──そう考えると、深く考えずに好きなものを好きなように取り入れている人が一番フレキシブルで自由なのかなと思わないでもないですね。知ってしまう悲しさ、面倒くささもあるわけです。僕はタイが好きでよくバンコクに行くんだけれど、ショッピングセンターの中に絵を描くスタジオがあるんだよね。そこでは過去の名画を何でも油絵にしてくれるわけです。名画の美術全集がそろっていて、「この絵をこのサイズで」と指定すると、中2日くらいで仕上げてくれる。旅行客が持って帰れるように。僕もウォーホルを描いてもらったんだけど(笑)、ウォーホルだろうがダ・ヴィンチだろうが、アーティストの名前で値段が変わるわけではない。値段はサイズと色数によって決定する。それはなるほどと言うしかない、まっとうな絵画の評価システムですよね(笑)。で、外国人観光客が、例えばモネの《睡蓮》を「横50センチぐらいで」とか頼むと、2、3日後にできてきちゃう。その店の人に聞いたんだけれど、不動の一番人気を誇るのはダリ。それからクリムト、タマラ・ド・レンピッカと続いてて、特にダリが圧倒的に人気。その3人の下にダ・ヴィンチとかが来る。この人気度は美術史とはまったく関係ないところで、大衆の欲望を正確にトレースしていると思いますね。この自由さを、美術史を知っている人は得られないでしょ。それはツェッペリンを音楽史の文脈でしか聴けない人と同じかもしれない。キッチュの先にあると感じるのはこうしたことですね。
成相──石子の思想展開はドメスティックに狭まっていったようにも見えますけど、じつはグローバルでもありうる。中国や東南アジアに行くとキッチュが活き活きと氾濫しているわけですね。
都築──さらに進化していると言えるのかも。石子さんの時代には世界各地で同じようなことがあったと思います。石子さんはその日本代表だったわけで、同じようなことを考えて同じように動いていた人たちが世界中にばーっと出てきた。だから本当は展覧会の第二弾として、世界編をやってほしいなあ。アメリカでもそうやって発見された大衆文化の世界があったし、イギリスでもフランスでもあって、それは世界的なうねりでしたよね。そのうねりがおさまって、今は等価になったのだと思うし。僕もウォーホルの《フラワー》を30センチ四方ぐらいの大きさで描いてもらって、うちに飾っておくとみんな驚くわけです、これ本物ですか! みたいに。そういうことを考えると、知的階級の歩みよりストリートの歩みのほうがスピードが速くて、キッチュの時代から今までに追い越しちゃったのかもしれないですね。
美術館の内/外
成相──ところで都築さんの「HEAVEN 都築響一と巡る社会の窓から見たニッポン」展(広島市現代美術館)は「正統な」美術批判であり、かつ美術館批判の面も持っていたと思うんですが、そもそも美術館がハイカルチャーの文脈で成り立っている以上、ひっくり返せないところがありますよね。今回の展覧会で、美術館にペナントやマッチ箱などを入れることが本当に有効であったのか、不安になることもあります。展覧会自体は意義があると思いながら、街の中にあってこそ生きているキッチュを、コンテクストを外して美術館に置いてしまうと何かしらじらしい。まじまじと見るものではない銭湯のペンキ絵を美術館に置いたとたんに、描き方や構図なんかを気にしてしまう。そうでなくとも、立ち止まって注視すること自体が、すでにキッチュの文脈を裏切ってしまうところがあります。キッチュは「これがキッチュです」と言った時点でキッチュでなくなる。名づけられてしまうと消えてしまう。だから美術館の中に違和感なく入ってしまったキッチュは、抜け殻ですよね。そのことについてはいかがですか。
都築──言っていることはすごくよくわかりますが、それは半分だと思う。名づけられたとたんになくなるものは半分で、名づけられて初めて生まれるものもある。例えばいろいろな草が生えていて雑草にしか見えないけれど、「なんとかハコベ」という名前を知るとそれがいきなり見えてくる。「雑草という草はない」とおっしゃったのは昭和天皇ですけれど、名前がつくことによって初めて見えてくるものもある。この美術館の別の階で開催されている孫たちの書道展を見に来た老夫婦が、石子順造展の鑑賞券をもらったついでに上の階をのぞいたら、銭湯の富士山の絵があったと。彼らはそこで初めて、ペンキの富士山を絵として見ていいんだと思うわけです。そういう触媒の役目を果たせるとしたらそれも美術館の役割だよね。だから、ストリートのものはストリートにあるべきというのは正論だけれど、半分しか正論ではない。それらを「美術館にここにこうやって並べてみればかっこよく見えるでしょ」というやり方はありだと思います。それに名前がついて「美術」になってしまうという危険性もあるけれど、そういう境界線上で楽しく冒険するのが編集者と学芸員の一番の楽しみであり、われわれにはそれ以外の役割はないかもしれない(笑)。それを最初にわかったひとりが石子さんだったんじないですか。
成相──たしかにサブカルチャーにしろキッチュにしろ、名前を与えてしまうことの弊害は大きいと思います。そこに安住しちゃいますからね。石子は、美術に対するカウンターとしてキッチュを持ち出したとか、美術について語ることがなくなって逃げ出した評論家だとか、生前から言われていました。でも、あたかもジャンルとしてキッチュとかサブカルチャーといった括りが別個に存在するとみなしたら、石子の言っていたことは台無しになるんです(その意味で今回の美術・マンガ・キッチュという展示構成は大いに問題ありなのですが)。そういえば先日ツイッターで「昭和のみうらじゅんだ」なんてコメントを見かけました。みうらさんは「昭和」からやってるよ(笑)。いや、みうらさんを否定するわけではありませんが、石子とはアプローチがまったく異なると思います。見過ごされているものが名づけられ、価値づけられたら、それは結局メイン/サブをめぐる価値の裏返しに終始してしまいます。
都築──その通りですが、でもそれは単に美術業界内での心配にすぎないとも思います。ほとんどの来館者にとって、そんなの関係ないでしょう。それよりも、例えばこの美術館がある公園で遊んでいる人たちに「こっちもおもしろいから来てよ」と誘いこむほうが僕には大事に思える。最終的な評価は時が決めることですから、これを「昭和のみうらじゅん」だと思う人がいてもいい。それで自分も「平成のみうらじゅん」になろうと思う人が出てくるかもしれない。心配はすごくよくわかりますが、そういう人をひとり生み出すことのほうが大事だと思います。
成相──キッチュを紹介したコーナーを見て「おもしろい」と思われる方は多いと思います。ただそれがさらに進んで、「キッチュのほうがよほどアートではないか」という言い方に展開するとすれば、それは非常に危ないと思います。それは裏返しに「アート」というものの価値強化であるわけですね。石子は、「アート」とか「芸術」という言葉とジャンルの呼応関係にある胡散くささを感じていた。そのとき石子が想定していたのは、専門的に語られているアート、芸術というより、一般に使われている「アート」「芸術」という言葉に付随するニュアンスとしての胡散くささだと思います。歌を歌えば誰でも「アーティスト」と呼ばれるときの、あの「アート」ですね。そのときの「アート」が指す範囲はものすごく限定的。何でもかんでも「アート」と言っているようで、しかし何気ない動作であったり今ここでやっているようにお茶を飲んだりすることを「アート」とは決して言わない。「ネイルアート」なんて言われるように、要は装飾を作るか高度な技術のこと、もしくは非常にオーソドックスな絵画彫刻の疑似形態だけが「アート」と呼ばれる。今回《モナ・リザ》のキッチュをたくさん展示しましたが、石子は《モナ・リザ》が当たり前に名画だと受け止められていく過程に恐れを感じていました。大衆が専門的な価値をキッチュに引き入れてたくましく飲み込んでいくようでありながら、その価値に疑問を持つどころかそれを狭く固定化して、イデオロギーにさえ転じてしまう危うさ。街にあるようなものと美術館にあるものとを対立関係で捉える限り、ステレオタイプが温存され続けて石子の頃と何らパラダイムは変わらない。
都築──ただ、くずにしか見えていなかったもの、今まではごみだと思っていたものを、これはコラージュのいい素材になるとか、もらったお土産がかっこいいグラフィックだというその転換はすごく大きいと思いますよ。「カメラ女子」が生まれてきたように、おもしろいものを見ているうちにだんだん目が養われてくることもある。そこから現代美術を理解できるようになるかどうか、あるいはそこからどう発展するかはその人次第だし、別に理解できる必要もないけど、まず第一歩だけでもいいと思うんです。それを美術界と関連づけて考えると話があまり進まなくなる。今日偶然ここに来た人が家へ帰って、ゴミとして捨てようと思っていたものを見直すだけでも価値があると思うんですよ。それこそが本当の美術の役割ではないかと思います。そういう意味で、今回隣で関連企画として「小山田二郎」展ををやっていたのはいいと思いました。この二つは一見すると全然違うけれど、じつは関連づけられている。小山田二郎はハイ・アート、石子順造はキッチュとして括られるけれど、同時代に同じ根から出てきたことがわかるとすごくおもしろい。