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美術/でないものへの目線と言葉──「石子順造的世界──美術発・マンガ経由・キッチュ行」展

都築響一/成相肇

2012年02月15日号

目線を下げるということ

成相──キッチュを「おもしろい」ということの難しさというのがあるんです。石子はキッチュに対しておもしろいという言葉は使いますが、批判的でもあって、つねに態度を留保している。距離をとってエキゾティックに見えるときに「おもしろい」と言えるのだとすると、石子はそのエキゾティックなものがいかに私たちに身体化されているかを考えようとしていました。おもしろいと言われるものは、はたして私たちにとって安全な外部にあるものだろうか、と。それは切り離して眺めうるものではなく、ほかでもない私たちが自分の中に引きずっているものであるはずだ、というわけですね。

都築──石子さんの亡くなった後、赤瀬川原平さんたちが「トマソン」を始めたじゃないですか。僕はあれはけっこう違和感持ってるんです。意義とかではなく好き嫌いの問題ですが、すごく上から目線を感じるんですよ。知的な階層がポピュラーなものをどう解釈し、それで知的遊戯に耽るかみたいな目線です。石子さんたちが60年代から70年代に「キッチュ」をやって、そこからみうらさんとか僕も含めて今にいたるこの40〜50年のあいだは、目線を下げていく過程だったという感じがするんです。僕がやりたいのは上から目線をいかに下げるかということで、同じレヴェル、同じ目線でエロ・グラビアも現代美術も楽しめたらいいなということをどうやって獲得していくか、ということです。闘いというと大袈裟ですが、ここ数十年のあいだにそうなってきているという気がします。

成相──下に行って、それはいずれ上に上がりますか。行きっぱなしということはありえませんか。下か上かと分けてしまうとまた堂々巡りですけれど……。雑誌『宝島』の、街のへんなものを見つけてくる「VOW(バウ)」という投稿欄、あれは今もあるんでしょうか。ともかく、あのような「VOW」的な視点は、今おっしゃったように現代美術に接続しうるかどうか。結局あれはどこまでもサブジャンルへと下降していくアイロニックな視点を生むだけで、自己を相対化する思考に結びつきそうにない。いずれつながるのであればそこに可能性はある気はするんですが、いつ、どういうふうにつながるんでしょうか。

都築──僕が行きたいのはへんな看板とかを作る人たちのほう(笑)。見るほうはまだ上から目線だから僕は「VOW」もあんまり好きじゃないんですよね、実は。そうではなくて、へんなものをへんと思わないで作る人のほうが素晴らしいと思うんだな。だから僕たちが下がるというよりはあちらを上げたいという気持ちもある。わかりにくい言い方かもしれないけれど、上げるには下から上げたい。

成相──おかんアートがマイク・ケリーになりますか?(笑)

都築──ならないかもしれないけれど、なる必要もないと思う。世の中マイク・ケリーとおかんが好きな人を比べたら数十万対1くらいの割合でおかんが好きな人がずっと多いでしょ(笑)。でも僕はおかんアートを上げたいと思っていないし、マイク・ケリーを下げたいと思っているわけでもなくて、「おかんたち」を上げたいんですよ。彼女たちを馬鹿にされないようにしたいだけです。その第一歩として、おかんアートを信用金庫のウィンドウに置いておくのではなくて、美術館のようなところに置いたら銭湯のペンキ絵のように違って見える、ということをやってみたいわけです。石子さんがやっていたのはそういうことではないのかという気はします。解釈とアプローチの仕方によって出てくるものは違ってくるから、ストリートで起こっていることに対してどういう目線でアプローチするかは重要です。その結果それが業界のなかで認知されていくのか、どういう意味をもたされていくのかは次の話で、その前に無視されているものを拾い上げるのが僕の役目だと思うし、石子さんがどっちつかずのところにいたのはそういうところなのかなという気もします。そういう意味で石子さんの立場は、ひとつは絶滅危惧種の保護者みたいな感じですね。もう一方はそれに批判的な、自分の知的な文脈からの解釈を言葉にする。石子さんはそのあいだで揺れ動いていたと思います。

望遠レンズから標準・広角レンズへ──石子順造の方法

成相──石子と同時代に、キッチュに対して揺れ動かなかった人物として寺山修司がいますね。寺山はキッチュに居直ったというか、キッチュの異化効果を最大限押し出して作品に取り込んだ。思えば一般に「アングラ」といって想起されるイメージはキッチュに彩られていますね。対して石子は、キッチュを消費対象から生産の源に転換させようと考えつつ、扱いかねたところがあると思います。

都築──寺山修司はブレがないけれど、石子さんはキッチュなものをおもしろいとも思うし、批判的にも見なくてはならないというところでブレもある。今だったらそこまでブレる必要もない。こういう人たちの業績があるから僕たちはもっとストレートに「エロ・グラビアのほうがいいと思います」とか普通に言える(笑)。だから石子さんのブレは先駆者の苦悩という気もします。

成相──石子がキッチュの観察から一歩進んでアプローチすることができなかったことは不思議でもあるんです。銭湯のペンキ絵を活用できる可能性だってあったわけだけれど、いつも傍観者に徹していた。それはやはり上から目線と言われてしまうのかなと。

都築──たぶん傍観者ですよ。銭湯のペンキ絵ですごくおもしろい絵師がいたとしても、その絵師を雇ってコミッションして新しい作品を描かせることはしない。それは批評家としてのスタンスだったのか、あまりに早く亡くなってしまったからなのかわかりませんが。
 石子さんと同じような感じでやった人に今和次郎がいますね。いま展覧会(Panasonic汐留ミュージアム「今和次郎採集講義」)をやっていますが、そのカタログにコメントを書きました。僕は今和次郎を嫌いではないですが、やっぱり上から目線を感じるんです。彼は絶対に対象に入っていかない傍観者で、望遠レンズで遠くから見ている感じがする。いろんな事象をすごく仔細に記録しているけれど、その対象が例えばどういう人間なのか、個人としてはまったく興味がなくて、日本野鳥の会みたい。その点で、石子さんは望遠から標準レンズに代えたという違いがある(笑)。僕は広角レンズでもっと近寄りたいんです。それは進化ではないけれど、そういうプロセスがある気がします。今和次郎とは一緒の時期の展覧会なのでそんなことを感じました。

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