フォーカス
美術/でないものへの目線と言葉──「石子順造的世界──美術発・マンガ経由・キッチュ行」展
都築響一/成相肇
2012年02月15日号
対象美術館
銭湯のペンキ絵に代わるもの
成相──いま、銭湯はほとんどなくなりつつありますけれど、キッチュな喫茶店の壁はまだ無数にありますね。ただの装飾の役割だけじゃなくて、銭湯の富士山のペンキ絵のように、喫茶店ならではの芸術が生まれないかなと思っているんですが。
都築──それはすでに生まれているんですよ。例えばクリスチャン・ラッセンやヒロ・ヤマガタ。ラッセンのイルカが飛んでいる絵が現在のペンキ絵だと思いませんか。僕は昔から『芸術新潮』とかの美術雑誌にラッセン、ヒロ・ヤマガタ、ケン・ドーンの特集をやりたいと言っているけど、毎回断られる(笑)。
成相──完全に無視されているラッセンのようなポジションは気になるし、いずれ美術館で扱ってみたいとは思うんですけど、ものすごく難しい。それこそ上から目線の攻撃にしかならない。
都築──攻撃じゃだめで、やはりリスペクトをもたないとね。例えば友だちが家を新築したのでダイニングルームにかける絵をあげようというときに、ラッセンのポスターとデュシャンの便器のポスターを並べたときにどちらがうまく鍋が食えるかといったら絶対イルカですよね。美術の人はラッセンを馬鹿にするかもしれないけれど、便器を見ながら食っているほうが、知的な刺激が味にも影響するんですとか本気で言えるのか(笑)。ずいぶん前に、大竹伸朗くんと御殿場にあるヒロ・ヤマガタの美術館に行ったんですが、すごくきちんとしたインスタレーションでした。東京国際フォーラムにある相田みつを美術館も同じです。相田みつを美術館は東京の美術館のなかで照明計画を一番きちんとしていると思うし。
成相──ただ、どうしてラッセンにしても相田みつをにしても「アート」や美術館の作法をそのまま踏襲するのか。既存の価値を流用しているだけで、必然性を感じない。それはいつまでも疑似美術としてのキッチュでしかないのではないかと思うんです。
都築──キッチュというのは美術界から言われているわけで、本人たちはキッチュと思っていないですから。相田みつを美術館には毎日通っている人がいるわけ。そんな人はルーヴル美術館だっていないし、その人たちは本当にあれに感動して見に来ている。ホスピスに貼ってある相田みつをの文章だってそうだと思う。それをキッチュと言い切るからには「それは違う、病室に貼るには吉増剛造を貼ったほうがいい」と言えるか(笑)。それだけのことが言えないと現代美術側の負けだと思うわけです。だってあっちは感動しているんだから。僕も美術側だとすれば、なぜみんなはラッセンや相田みつをが好きなんだろうと考えることと、自分たち美術側はほかの人たちとこれほど目が離れてしまったと自覚することは、キッチュかどうかということを超えていつも押さえておかなくてはいけないと思う。それはストリートレヴェルに降りていくこととは違う話で、日本人の9割が相田みつをが好きで1割未満の人が現代詩が好きだということは美術でも同じなわけです。イルカが飛んでいる絵が好きな人のほうが圧倒的に多い。こんなにプロが好きなものとアマチュアが好きなものが分かれてしまったのは、ここ数十年でしょう。昔はプロが好きなものはアマも好きだった。アマの好きなものを一番うまく描けるのがプロで、それで何の問題もなかった時代が2000年くらいあったわけですよ。僕は美術史に詳しくないからよくわからないけれど、悲劇はそういうところにあると思っているんです。
成相──うーん。先ほど「上から目線」という話題になりましたが、どうしても「キッチュ」と呼ぶことが「馬鹿にしている」というニュアンスを含み込んでしまうんですよね。それは必ずしも「上から」に限らず、お互いに。今おっしゃった「ほかの人たち」もまた、「美術側」を馬鹿にしないまでも避けているのではないかと思います。それはそれで放っておいていいのかもしれない。でも、キッチュという確固としたカテゴリーがあるわけでなく、キッチュが現象であって、キッチュをキッチュと認識させる根拠がある原理なのだとしたら、そもそも「美術とキッチュ」、あるいは「プロとアマ」という問題設定そのものが無効です。同じものが美術にもキッチュにもなりうるわけで。そうした不毛な分類がそれこそ当たり前に受け入れられている状況があるのなら、それこそを疑わないといけない。展覧会として見せるとどうしても表面的な現われと差異が目立つのですが、今回の展示全体を一元的に語る共通言語を編み出そうとして半ば果たせなかった石子の統一視点、あるいは「石子順造的世界」は、まだ探索する余地がありそうですね。