フォーカス
震災、文化装置、当事者性をめぐって──「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の設立過程と未来像を聞く
甲斐賢治/竹久侑
2012年03月15日号
対象美術館
“市民”として
竹久──「わすれン!」は市民メディアセンターでありつつ、プロの人たちも関わっていますよね。
甲斐──プロであっても、ひとまずはみんな“市民”という考え方です。だから、たとえば水戸芸にも出展されたことのあるアーティストの藤井光さんの場合でも、メディア・アクティビストとしての藤井さんに協力をお願いしたような感じです。当初、ただ漠然と作品化されることに違和感があったので、ただ記録してもらうためのセンターというイメージを持っていました。
竹久──藤井さんは、「3.11アートドキュメンテーション」として、被災地のおもに美術に関わる人々の震災時やその後の状況をインタビューして映像で記録していますが、これも「わすれン!」のための動きだったのですか。
甲斐──彼はすぐにアートNPOエイドのほうで動いていたけれど、あらためて“市民”として登録してもらって、自分がやっている活動は自由に続けてもらいつつ、登録してもらうことで、それをsmtにアーカイブするという関係をとりました。つまり、登録された本人がどこに使おうが構わない。映画監督が作品をつくってもいい。ただ、厳密に言うと現時点では、映画の場合は配給の権利の問題が将来発生する恐れがあるので、作品は預からず、素材だけをアーカイブするようにしています。実際、登録者でもある濱口竜介+酒井耕監督の映画『なみのおと』の素材はすべて預かる予定です。
竹久──いまはどんな人が登録しているのですか。
甲斐──登録者は100人弱で、そのうち半分くらいが仙台市域の人、半分が東京や関西を含めた県外の人。また、全体の半分が映像、アート、人権団体などのなんらかの専門家で、残りの半分がいわゆる専門性を持たない人たちです。
たとえば、自分が以前から知っている沿岸部をただ歩き、丁寧に撮っている人もいる。その映像はとても不思議な存在感を持っています。セリフはまったくありません。あと、特殊な例ですが、アーティストの小森はるか+瀬尾なつみさんのチーム。彼女らは沿岸部のボランティア先などで知り合った人たちに繰り返し会いに行ってます。その後、先方の仮設住宅や自宅などに泊まったりして、おばさんたちと仲良くなりながらその経過を丁寧に記録に残している。僕もまだみていませんが、それが100本以上あるようです。ただ、肖像権に深く関わる面もあり、ウェブでどこまで出せるかわかりませんが。
カメラを持つためのアイデンティティ
竹久──撮られた映像の内容はいろいろですね。
甲斐──今度、上映会をしますが、そこで上映される映像が20本。車載カメラで仙台から女川までひとりで物資を運んで行き来するものや、『なみのおと』みたいな映画もあります。
「わすれン!」のウェブサイトにアップされているなかには、シリーズものもあります。たとえば、「わすれン! ストーリーズ」というシリーズは、「3月11日にどうしていたか」「その後どう思っているか」「忘れないためにどうすればいいと思うか」という三つの質問をいろいろな人に聞いていくというものです。ほかに「経路研究所」といって、どのように逃げたかを本人たちにインタビューしながらその経路を一緒に歩くものがあったり、漁師町を記録する「海としごと」というシリーズは、震災後、海苔の養殖を再開していく過程を撮っています。
ただ、これらのクリップは先に話した緊急雇用創出事業という国の補助金を用いて雇用した仙台の若い人々が制作しているもので、実際の登録者から納品されるにはやはりすごく時間がかかります。みなさん、いつもはほかのことしているわけですしね。
竹久──いわゆる“市民”の人たちがなにを撮ってくるかは確認するまで知らないということですか。
甲斐──はい、知りません。基本的に完全自由なんです。ただ、そこに少し課題があるようで、現時点で成果をあげられたのは登録者のうち30人ぐらいにとどまっているように思えます。
アーティストや映画監督やたとえそれらを目指す学生なども、カメラを持つ必然とか心構えみたいなものを基本的には事前に持っていますよね。つまり、カメラを持つことを支えるなんらかのアイデンティティがある。おそらく、ビデオカメラは職業との関連ではじめて持ってもいい道具であって、鉛筆みたいに誰もが持つのは難しいというのが一般的な認識なんだと思います。だから、市民がなんとなく「ビデオカメラで僕も」と思ったときに、アイデンティティが弱いというか、その理由を後見する概念がない。だから、そのメンタリティを支えるために、とにかくどんなことをしているかをお互いに話せるサロンを開いています。それはマダム(=僕)がいるという設定で「サロン・ド・わすれンヌ」と呼んでいました。
竹久──ファシリテータは甲斐さんですか。
甲斐──毎週水曜日に僕がマダムをやっていました。でもどんどん、出られなくなって、チーママにお願いしたり……。
〈隔たり〉を行き来する回路
甲斐──smtを全館オープンに向けて復旧させていくうえで、震災復興を2011年度の全体のテーマに掲げ、それ以外の事業はしないとまず言い切りました。そうしないと、ぶれると思いました。で、まずはじめに、人が集まって話していること自体が作品に見える/大事なことをしているように見えるような家具をつくってほしいとgm projectの豊嶋秀樹さんに依頼しました。それが「考えるテーブル」。そこで「てつがくカフェ」という企画などをやっています。
これは2010年から続いている取り組みで、哲学者の鷲田清一さんのお弟子さんにあたる仙台の西村高宏先生と一緒にやってきました。それを「いまやるべきちゃう? 先生どう?」って言ったら「やろうやろう」となった。それでやってみたら本当に驚くほどにたくさんの人が来てくれました。
竹久──震災直後という時期と状況だからでしょうけど、市民が大勢「てつがく」しに集まるというのは、なかなか想像できない。やっぱりみんな誰かと話したかったのでしょうね。震災後、誰かと話したいという気持ちは、自分も含め、水戸の友人知人からも感じられました。
甲斐──そうですね。それも常連ばかりではなくて、毎回、けっこう人が入れ替わっています。「『公』と『私』」というテーマのときには、看護士さんなども参加されていました。みなさんすごく考えていて、職業を越えた応答があります。なにか一人では背負いきれない感覚について話せる場所がないから、みんなが集まったりするのだと思います。
竹久──話すときには、自分の名前や肩書きなどを名乗りますか。
甲斐──どちらでも自由。「てつがくカフェ」では社会的役割を外して話す。ようするに社長と社員が同等でしゃべるというのが、ルールになっているように思えます。
竹久──水戸芸術館でもワークショップをよくやっていて、議員さんがお子さんを連れてきて親子で参加したこともありますが、その場ではほかの参加者と同じ市民です。社会的な役割や地位がもとになったヒエラルキーがいったん保留になる関係性が、アートのワークショップのなかで実現することを私も現場で実感しています。「てつがくカフェ」も同じような意図をもっていて、しかもそのヒエラルキーが崩れるように仕込んでいるのがおもしろいですね。
甲斐──もちろん自覚的にやっています。振る舞いを既定しているロックを外すための仕組みです。
竹久──「てつがくカフェ」は話を聞けば聞くほどおもしろい。
甲斐──「災害ユートピア」的な異常事態だからだとは思うけどね。ただ、震災の記憶をただ目減りさせず、それぞれに考えを整理する仕組みとして「てつがくカフェ」はすごく有効なように思います。
それから、話が前後しますが、5月のオープンのときは「歩きだすために」という連続トークを企画しました。図書館ならば多くの人が振る舞い方を知っているから安心して入ってもらえるだろうと、図書館を一部、1階の広場におろしました。で、真ん中にまだ家具はなかったのですが、考えるテーブルをつくって小さなトークをしようと。みんな混乱しているから、考えを整理するために、誰か信頼できる人の話をゆっくり聞く場にしようということで、伊東豊雄さんや鷲田清一さんや加藤種男さんなどに来てもらいました。
その際、鷲田さんは、お話のなかで〈隔たり〉という言葉を使われました。現地では非常にセンシティヴな言葉ですが、いわば被災格差があって、失職する人もいるし、原発の汚染エリア内/外、関東と東北、東日本と西日本とか、被災者だけど家がある人/ない人……、とくにかくいろいろなところに〈隔たり〉が生じます。その〈隔たり〉によって、いろいろな問題が今後出てくるだろうと。
竹久──鷲田さんはそれを5月の時点で指摘されていたのですか。
甲斐──そうです。そうやって他者との距離が生じて、自閉していき、語れなくなっていくだろうと。そうであれば、その〈隔たり〉を行き来する回路をつくることが、smtの活動のテーマになるのではないかと考えるようになりました。ビデオカメラを持って沿岸部に行くことも他者を知る回路だし、高校生同士でインタビューしあうことも他者を知る回路になるわけです。関東でもぞもぞしている若いアーティストが被災地に関与するための回路にもなりうるし、「てつがくカフェ」も、他者と自分を照らし合わせ、自身を落ち着かせていくものだったし。アーティストのタノタイガさんと行なった「タノンティア」も中崎透さんとの「制活編集支援室」もその回路のひとつで、ようするに「アート」を通じ、もやもやしている人が安心して入ってこられるような回路ですよね。