フォーカス
早春のパフォーマンス2つ──黄鋭の「八卦磨」と何雲昌の「十世」
多田麻美
2012年05月01日号
ぶつかりあう力のなかで
次に臼に目を向けると、その上には風水羅盤を象った図面が彫り込まれていた。内容は中央の軸から外に向かって順に方位、八卦、16の問題(政治、経済、文化、歴史、社会、新興、民族、人権、教育、民生、安全、倫理、法律、性別、環境、国際)、二十四節気、中国の省や直轄市、および自治区、中国の56の民族、そして天干地支と八卦の新しい言葉(開放、探索、兼容、批評、競争、創造、人性、反省)。そしてこの臼の上を転がるローラーに刻まれていたのは「発展」の二文字だ。
パフォーマンスの終了後のインタビューで黄鋭は「八卦臼」について「自発的な力と受動的な力を通じて、社会の存在を感じ取ったもの」と語った。では、いまの環境はアーティストにとってどのようなものなのか。
「現在の中国の社会では、抗い、ぶつかり合う力が大きいため、創作が生まれうる素材はたくさんある。アーティストは矛盾の衝突が火花を散らす、その動きのなかにいて、だから、中国のアーティストにはチャンスがある」。
黄鋭によれば、政策の主体的な要求に沿った範囲では現代アーティストには活動の余地があり、また別の面では、彼らの活動はマーケットを発展させてもいる。それは中国全体の動力になっている。だが「その根源にある、創造、批評、再考や反省といった面に関しては、そこから芸術作品が発生し、マーケットに出ているにもかかわらず、社会は本当の意味でそれらを受け入れているとは言えない。また知識人とは何かということも本当に理解されてはいない」。
具体的な表われとしては、例えば民間が国際規模の芸術祭を行なっても、政府の認可した部門や中国国内の企業はまったく支援、賛助をしないケースが目立つという。政府側は反対も賛成もしない立場を貫いているからだ。
しかも筆者個人の印象を述べれば、この場合でも、許された範囲を飛び出せばすぐに抹殺されかねない。そのため、表現に関わる者たちの多くは、その範囲で必死にあがくしかない。そこにはかなりの自由もあるため、それなりに幅広い表現ができるのだ。ここでまさに、ゆがめられた原則がかえって生産性を生むという、残酷な挽き臼の構造が思い浮かんでしまう。
内側からの挑戦
黄鋭は現在の中国における創造性について、「いまだ劣っており、いまのところ中国はまだ、かつての日本のような製造大国に過ぎない」と断言し、そのうえでこう語る。「だが中国文化は世界史の分野で常に主流であり続け、広大な部分の地域、人口、歴史にずっと影響を与えてきた。そのなかに身を置き、内側から批評、研究、主体的な創造をすることで、社会の目を覚まさせること。それこそが中国のアーティストたちが自らの立場を確立する助けになる」。
かつて798芸術区の保護に大きな役割を果たした黄鋭は、自ら主な創始者となって立ち上げた「実験的な経済体」、北京思想手文化有限公司のオーナーとして、アート関係の書籍の出版を行なったり、草場地の写真祭などに実際的かつ直接的なサポートを与え続けたりしてきた。だが、あくまでその主な軸足はアーティストとして、自由にアクションを起こすことに置かれている。
「保守的な勢力というものは封建時代からつねに存在してきた。アーティストにできることとは、彼らと抗い合うなかで、自分の見方、責任感をあえて前に出していくこと。そうすれば以前798を守ったように何かができるかもしれない」。
さらに黄鋭は商業性や体制からの「独立」を保つ重要性を主張する。そして個人として活躍しつつ、すばらしい作品を残した魯迅や曹雪芹を例に挙げ、「古典を回顧し、独立と抗いの方法を知るべき。まずは自分が存在している環境を理解する努力が大切だ」と言葉を締めくくった。