フォーカス

早春のパフォーマンス2つ──黄鋭の「八卦磨」と何雲昌の「十世」

多田麻美

2012年05月01日号

肉体的限界に挑む

 黄鋭が臼を回し始めたその日、同じ草場地の隣接する敷地では、静かな、しかし独自の磁場の中で、もうひとつのパフォーマンスが始まっていた。何雲昌の「十世」だ。


写真7 パフォーマンス初日の何雲昌[撮影:張全]

 何雲昌といえば、コンクリートの中に自らの身体の一部や自分自身を閉じ込めた各種のパフォーマンスなどで知られ、近年では現地で拾った石を手にグレートブリテン島を徒歩で一周した《石の英国漫遊記》、手術で自らのろっ骨を一本取り出し、愛しい女性の首にかけた《一本のろっ骨》などのパフォーマンスで話題を呼んだアーティスト。
 そんな肉体の限界にチャレンジした作品が多いなか、今回彼が挑戦したのは、寝袋で寝泊まりしながら屋外で春を待つという、「不動性」に徹したパフォーマンスだった。具体的には、行動は庭の十五平米ほどの範囲に制限し、飲食も排せつもその範囲で済ませ、しかも言葉もまったく発さないというもの。タイトルの「十世」は仏教の輪廻の思想に由来するというが、むしろ監獄を思い浮かべてしまったのは筆者だけではないだろう。
 パフォーマンスが行われた期間は3月24日から当時土色だった地面が一面の緑に変わるまで。当然、開始時には正確な長さはわからない。ろっ骨を取り出す作品の後、疲れやすくなったという何雲昌の体を気遣いながら、その終了を待つこと28日間。その後、パフォーマンス中に負担のかかった体を回復中という何雲昌に話を聞くと、野宿をしていた間は心身の状態もかなり不安定になったらしい。一番体に響いたのは湿気で、次に運動量の極端な少なさ。2週間目に脚がかなり腫れ、28日目には手も上がらない状態になっていたという。


写真8・9 同上[撮影:張全]

「待つ」行為の多様性

 何雲昌は今回の作品についてこう語る。「生活のなかで人は、仕事のプレッシャーや日常のこまごまとしたことに煩わされている。しかし一面に伸びる草を見れば、心が慰められる」。パフォーマンスの間、その脳裏には「草間人命」(人の命を雑草のように扱うこと)という言葉が浮かんだという。「人の命ははかない。でも時には花も咲く。自然を前に、人の行為やその役割はごく小さなもの。一千年以上経てば、金銭や国家などすべてなくなってしまうかもしれない。だが、その時に草まで生えていなければ、やはり哀しい」。
 何雲昌は「人にはそれぞれ異なるさまざまな選択があり、夢がある」と主張する。その実現を待つなか、往々にして人はさまざまな苦難を経ることになるのだ、と。
 率直な話、何雲昌が今回選んだ表現スタイルは、決して目新しいものではない。筆者は別のアーティストが厳寒の冬、やはり何かを待つかのように、雪の中でひたすら座り続けるパフォーマンスを目にしたことがある。政治的行為としての座り込みに至っては、言をまたないだろう。にもかかわらず、何雲昌の今回の「待つ」行為は、なぜか筆者の心をゆさぶった。
 もちろん、それは簡潔にして多様な隠喩を含む、パフォーマンスの形式に負うところが大きいだろう。また、さまざまな面で転換期にあるいまの中国では、「人はどのような状態で何を待ちうるか」というさまざまな想像が沸き起こるからかもしれない。
 だが何雲昌自身への、「あなたは何を待っているのですか?」という筆者の問いは、うまい具合にはぐらかされてしまった。

「RAZE」展

会場:北京芸門画廊 Pekin Fine Arts
会期:2012年3月24日〜4月1日
詳細:http://www.pekinfinearts.com/exhibitions/exarchive.php

パフォーマンス「十世」

会場:草場地にある何雲昌のアトリエの庭
会期:2012年3月24日〜4月15日

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