フォーカス

キース・ヘリング回顧展「The Political Line*」

栗栖智美

2013年06月01日号

アートによって世界を変える


Untitled, 1982
BvB collection Genève
Encre sumi sur papier
96,5 x 127 cm
© Keith Haring Foundation


 制作風景のヴィデオを見ると下書きなどせずにサラサラと線を描く姿が印象的だ。プリントアウトしたようなクリーンな画面。展覧会の来場者からは、一筆書きで描いたような、自信に満ちた線に驚きの声があがっていた。彼の揺るぎない線は止まることなく、恐れることもなく、消されたり後戻りをすることもなく、世界中の平面を埋め尽くしていく。
 黒人も白人も大衆もエリートもホモセクシャルもヘテロも富も貧困も国境も分け隔てることなく平等につなげていった線。当時、深刻化していた核戦争への脅威、南アフリカのアパルトヘイト問題、そして自らもその犠牲者となったHIVなどのテーマを、シンプルかつわかりやすい線で訴えかけたのがキース・ヘリングのアートである。
 彼ほどの知名度とインパクトのあるヴィジュアルをもってすれば、政治的テーマを大衆に訴えかけることは難しくなかっただろう。事実、ホモセクシャルへの偏見とAIDS蔓延の局面にあったアメリカでは、SAFE SEX or NO SEXというメッセージの書き込まれたヴィジュアルが彼らを奮い立たせたという。(因みにAct Against AIDSの最初のポスターを描いたのはキースである)。また、黒人解放のデモのためにFREE SOUTH AFRICAのポスターも手がけ、政治的な集会に積極的に参加した。彼はアートによって政治問題を意識させ議論を巻き起こし、世界を変えたいと望んでいたのである。


Michael Stewart – USA for Africa, 1985
Collection Lindemann, Miami Beach
Acrylique et huile sur toile
295 x 367 cm
© Keith Haring Foundation


 「マイケル・スチュワート」と題された作品がある。中央の男性が四方から伸びる手や足によって痛めつけられている。南アフリカとNYに印がついた地球は半分に割れ、そこから赤い血が流れ出している。これは同名の黒人グラフィティ・アーティストが白人警官に殺された事件をモチーフにしている。身近な世界で起きた出来事に怒りと悲しみをおぼえ制作されたのであろうが、残念ながら死後30年たったいまでも、このやり場のない悔しさは心に響く。
 展覧会のパンフレットに「鑑賞者のなかには、彼の政治的メッセージに対して嫌悪感を抱くことがあるかもしれません」と注意書きがしてあるように、作品が訴えるメッセージはかなり直接的である。そして、彼が繰り返し叫んだテーマのほとんどが、いまもなお、この世界の悩みの種であり続けているのは悲しいことだ。
 展示室はAIDSで亡くなる最晩年の作品で幕を閉じる。晩年の作品は、静かに死を受け入れる穏やかな雰囲気が感じられる。とりわけ作風に変化があったわけではない。だが、人種差別や宗教戦争、核の脅威をテーマにした作品にある怒りは消え、どことない神聖さが画面を覆っていた。いろいろと考えさせられた展覧会の締めくくりとして、清々しさまで感じる作品群であった。

  • キース・ヘリング回顧展「The Political Line*」