フォーカス
映画/映像のメディウムを読み直す(「映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める」展レビュー)
阪本裕文(映像研究/稚内北星学園大学情報メディア学部情報メディア学科准教授)
2014年05月15日号
対象美術館
美術館の展覧会において映像作品や、映像を使用したインスタレーション作品が展示されることは、今やありふれた光景となっている。1990年代後半あたりから増加したこのような傾向は、制作環境の変化から見ると、ノンリニア編集やビデオプロジェクターの普及といった要因によって促されたものだと言える。この「映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める」と題された展覧会も、一見すると、そのようなありふれた映像作品の現状を紹介する企画展の一種であるように思われるかもしれないが、そうではない。本展は、虚構の美術館である『近代美術館 鷲の部』シリーズで知られている、マルセル・ブロータースが提示した映画をめぐる思考を参照しながら、映画あるいは映像──以下、本文中では包括的な意味において、便宜的に映画/映像と表記する──を美術の制度内において検討するという、極めて批評的な視点を持った企画展となっている。
どうも近年の美術領域において見られる美術家による映像作品というと、撮影対象となった社会的・文化的モチーフとの関係が主眼化される一方で、映像というメディウムそれ自体の取り扱いにおいては、程度の差はあれ、無頓着な傾向が散見されるように思う。私はそのような傾向に対しては、映像のフォーマリズム化を探求する方向に向かうべきとは思わないが、映画/映像という集合的・混淆的なメディウムが持っている潜在的な機能について、もう少し自覚的になっても良いのではないか、などと考えてしまう。そのようなポジションに立脚する私にとって、本展が持っている視点は大変興味深いものだった。
まずは展覧会の全体像について、簡単に概説しておきたい。本展は、ユニークな目論見によって観客の導線を構成している。まず展覧会場にやってきた観客は、本展を象徴するブロータースの『ケルンでの犯罪』(1971、1min30sec、16mm)がプロジェクションされた会場入り口をくぐって、5台の16mmフィルム映写機が回転する最初の展示空間に抜け出る。この展示空間は、本展のコンセプトとなるブロータースの〈シネマ・モデル〉として、5本のフィルムを観客に提示する役割を担っている。そして、この先にあるTheatre1〜Theatre6と名付けられた各展示空間は、それぞれ独立する曲がりくねった経路によって、この空間に繋がっている。そのため、各シアターの作品を観るたびに、観客は必ず〈シネマ・モデル〉の部屋に立ち戻ることになる。すなわち、展覧会場全体が、観客による多様な読解を促すための装置として機能する形になっている。
さて、この最初の展示空間にある〈シネマ・モデル〉とは、ブロータースが1970年に5人の芸術家に関連づけた5本の短編フィルムとともに示した、映画についての思考のモデルと言えるものである。それはイメージと言語のあいだで揺らぎながら、映画を構成する装置をひとつの集合態として見なし、絶え間ない差異化の運動を生み出すブロータース独自の方法論であり、その目的とは、カタログに収録されたエリック・デ・ブロインの文章を引くならば、「終りなき意味の後退の統御をうけつつ、装置の物質的な構造を用いて、思考のプロセスを可視化すること」(p.35)に集約されると言える。この5台の映写機がバラバラに駆動する空間は、総体的なかたちで、ブロータースの思考の様々な側面を浮かび上がらせている。ここで上映されているブロータースのフィルムについて、特に印象的な作品についてのみ簡単に説明しておく。
ブロータースの『カラスと狐』(1971-72、7min、16mm)は、同名の寓話を参照したブロータースのテクストの(文字の)クローズアップと、花・手袋・グラスなどの図版イメージによって構成される。このようなイメージが、テクストが書き込まれたフレームに投影される。それにより、フィルム内の文字とフレームに書かれた文字は重なり合い、重層化する。
『パイプ(ルネ・マグリット)』(1969、5min、16mm)は、まずレンガ壁を背景にして「これはパイプではないだろう」との字幕が表示される。そして画面は煙に包まれ、そのなかから、煙を吹き出しながら宙に浮くパイプや時計といった品々が現れる。この宙に浮くパイプに対して「Figure」という字幕が表示されるが、それは「Figure II」、「Figures」などと展開し、イメージと言葉の対応関係が横滑りしてゆく。
『シャルル・ボードレールによる映画』(1970、6min30sec、16mm)は、ボードレールの若き日の旅を描写する映画である。作中の持続時間のほとんどを黒画面が占めており、そこに旅の日付と、謎めいた不穏さを漂わせた単語の字幕が入り込む。また時折、世界地図のイメージも挿入される。日付は1985年1月3日から12月7日まで進行するのだが、やがて、あるテクストを読み上げる子供の声が二度発され、鐘の音が鳴る。これが折り返し点となり、時計の音が時間を刻み始める。そこから旅の日付と単語の字幕は逆行をはじめ、最終的に冒頭に戻って映画は終了する。
このような、イメージと言語の持続的な関係性の変移のなかで、宙吊りになった思考を惹起させるような、ブロータースのアプローチの延長線上に、12名の作家によって制作された近年の映像作品や写真作品などが布置されることになる(東京国立近代美術館の展示と、それに先行した京都国立近代美術館の展示では、会場の構成が若干組み直されているが、ここでは東近美の会場構成を元に文章を続ける)。〈シネマ・モデル〉の空間の先にあるシアター1〜シアター6は以下のようなテーマ編成になっていた。
- Theatre1:Still-Moving(シンディ・シャーマン、アナ・トーフ)
- Theatre2:参照・引用[シーン1](ピエール・ユイグ、やなぎみわ)
- Theatre3:幕間:芸術家と美術館(田中功起)
- Theatre4:参照・引用[シーン2](エリック・ボードレール)
- Theatre5:テクスト(アクラム・ザタリ、アンリ・サラ)
- Theatre6:充満と不在(アイザック・ジュリアン、ミン・ウォン、ダヤニータ・シン、ドミニク・ゴンザレス=フォステル、ただしフォステルのコンセプチュアルな非映像作品のみ会場外にて展示)
このなかでも、特にピエール・ユイグの『第三の記憶』(1999、9min32sec、2ch-video)と、エリック・ボードレールの『重信房子、メイ、足立正生のアナバシス、そして映像のない27年間』(2011、66min、8mm/HD)は、映画/映像の装置が持っている集合的・混淆的な特性によって、揺らめく状態におかれた思考を記録・可視化する作品として、ブロータースの〈シネマ・モデル〉との高い親和性を見せており、大変興味深かった。以下、簡単に説明しておく。
ユイグの『第三の記憶』は2チャンネルのビデオインスタレーションであり、1972年にブルックリンで起きた有名な銀行強盗事件を題材にしている。このセンセーショナルな事件は、後に劇映画『狼たちの午後』(1975)のモチーフにもなった。この強盗事件の経緯を犯人その人の実演によって、虚構的なスタジオ・セットのなかで再現するというのが、本作のコンセプトである。ただし、犯人による実演は、現実における強盗事件と、大衆的な商業映画的スペクタクルとしての強盗事件が混ざり合ったものとなっており、多くの間違いや差異を含んでいる。これは作家によって意図されたものであり、この作品が目的としているものは事件の真正性の証明ではなく、間違いや差異が生成されるプロセスにあると言える。そして作品は『狼たちの午後』の引用映像を織り交ぜながら、犯人の再演のプロセス──すなわち差異生成のプロセス──を、その映像のなかに収めてゆく。
ボードレールの『重信房子、メイ、足立正生のアナバシス、そして映像のない27年間』は、スーパー8で撮影されたレバノンと東京の風景を交互に映し出し、そこに重信房子の娘である重信メイと、中東に渡って革命闘争に身を投じた映画監督である足立正生へのインタビュー音声を重ねてゆく作品である。二人はインタビューのなかで、革命に生きた──イメージの残されていない──27年間の生活を振り返っている。このイメージを欠いた27年間は、作中において欠如した中心として提示される。そして二人の言葉や、レバノンと東京の風景は、その欠如の周辺を漂いながら積み重なってゆく。それによって、ここでもまたブロータース的な、イメージと言語のあいだで揺らぐ思考プロセスが浮かび上がる。
このように、ブロータースの諸作品と上記の二作品が示す方向において各シアターの映像作品と写真作品をひとつひとつ個別に読み解いてゆくならば、それらの作品全てが、イメージと言語の関係を重層的に読み直すブロータースの〈シネマ・モデル〉に通底する試みとして再解釈され、批評性を持って各シアターに配置されていたことが分かる。
このような、映画/映像のメディウムに内在する特性を美術の制度内において検証するような展覧会は、ひとつのテーマ提起として大きな意義を持っているように思う。映画/映像のメディウムを美術の制度内において検証するということは、映画/映像の領域において未だに支配的な、劇映画のような、物語伝達のための視覚的装置としてのアプローチを批判しながら、そのメディウムの多義性を見直すということである。これは、安直な映像インスタレーション作品とは対極的な、極めて批評的な試みと言えるだろう。そのような安直な作品たちが、デジタル映像があらゆる場所に遍在する現在の状況を無批判に内面化しているのに対して、本展のアプローチは、映画/映像という集合的・混淆的なメディウムを、積極的に再発見・再生産しようとするものである。この、ブロータースを手がかりとする展覧会全体の着想は、クラウスがポストメディウムの概念を展開させた、『A Voyage on the North Sea: Art in the Age of the Post-Medium Condition』(2000)におけるブロータース作品の分析を参照したものだと言える。近年、映像の側から捉え返される形でポストメディウム論が検証されるなかで、本展が示したメディウムの読み直しは、有益な示唆を与えるものとなり得るだろう。
ただし、若干気になる部分もあったので、それについても述べておく。映画/映像と美術の関係を既存のやり方で歴史化することを避けて、新しい読解を促したいという企画者の意図は理解できるが、そもそも国内の美術の言説においては、美術と深く関わり合う映画/映像の歴史的経緯が顧みられてきたとは言い難い。その言説では、美術と重なり合う中間領域において先駆的な試みを行ってきた映画/映像が──すなわち、カタログ内でリピット水田堯が言及したような実験映画や、社会的なものを含む広義のヴィデオアートが、ほぼ排除されている。そのような映画/映像にまで目を向けるのであれば、ブロータースのアプローチに通底する多義的な読解の可能性は、まだまだ無数に存在していると言える。