フォーカス
失われた作品を求めて──ナチスによる略奪とグルリット・コレクション
木村浩之
2014年06月01日号
2. 父と息子
コーネリウス・グルリットは父ヒルデブランド・グルリットの息子として1932年ドイツ・ハンブルグに生まれた。親戚には、同名コーネリウス・グルリットの名をもつ美術史家の祖父や作曲家の叔父などがおり、グルリット家はドレスデンを中心に活躍する芸術家名家であった。父も美術史家であった。
しかし父は、ナチスがドイツを支配して以来、それまでのハンブルグ芸術協会長職を解雇され、美術商となる。だが後にその手腕が認められ、ドイツ中から集められた「退廃芸術」を外国に売りさばき、資金を稼ぐナチスお抱えの美術商としての仕事を任命されたのだった。1939年にスイス・ルツェルンにて行なわれた有名なオークションで彼が売りさばいた作品には、現在スイス・バーゼル市立美術館の主要作品となっているフランツ・マルクの作品などが含まれている(元ハレ・モリッツブルグ市美術館所蔵品)。ドイツ国内で価値がないとレッテルを貼られた作品を、国外にできるだけ高価で売るという矛盾をはらむ任務だった。
グルリット一家は、1942年にはハンブルグを離れ、地元ドレスデンに戻っていた。そこで彼は、「リンツ特命」と呼ばれる総統美術館準備のための作品選考委員に任命される。彼の任地は当時ナチス党の占領下にあったフランス、主にパリであった。そこではドイツ国内で行なっていたようなユダヤ人からの略奪的行為ではなく、美術商から「普通に」購入したと、戦後になってから連合軍の略奪美術品調査団「モニュメンツ・メン」の取り調べで答えている。現在はそれが偽証だったとの見方が強いが、当時はそれ以上の疑いを掛けられることはなかった。ちなみに彼がヒトラーのために求めていたのは「退廃」的作品ではなく、クールベやドガなどフランスの作品が中心であった。
そして1945年2月、ドレスデンを破滅させた「ドレスデン爆撃」の戦火をくぐり、グルリット一家はドレスデンから逃れる。
戦後は、片親がユダヤ系の血を引くことや、ナチ党党員ではなかったことなどから、戦争責任を逃れ、1948年以降、デュッセルドルフ芸術協会のディレクターとなっていた。しかし1956年に交通事故で突然亡くなった。
そこで息子コーネリウスが、「ドレスデンで焼失した」と思われていた作品群を含む1,500点にも上るコレクションを突然相続するわけだ。コーネリウス20代半ばのことである。その頃、彼はケルン大学にて美術史を学んでいたが、卒業せずに終わっている。
作品には、オットー・ディクス、マックス・ベックマン、シャガール、ムンクなどの「退廃芸術」作品を含み、ピカソ、セザンヌ、ロダン、ミレ、コロー、モネ、マネ、ルノワール、ドガ、マティス、ピサロ、ゴーギャン、クールベ、スーラなどの仏モダンクラシックの作品が多い。そのほかにも、ティエポロ、カナレット、レンブラント、デューラー、ホルバイン(子)、クラナッハ(父)など近代以前の作品や、さらには日本の浮世絵まであった。フランスとドイツが多いものの、一貫性がなく、寄せ集めという印象を受けざるをえない不思議な作品群だ。加えてシャガールの作品は未知の作品だったようで、どういった経緯で収集されていったのか、興味を引く作品群とも言えよう。
父の他界後、1968年に母も他界している。彼の大学後のこと、ミュンヘンへ移った動機など、彼の個人的なことは一切わかっていない。ただ、ひとりでアパートにこもって生きてきたらしいということだけが言われている。
そして彼自身も突然、心臓疾患により他界した。2014年5月7日、81歳だった。1月に手術を受けており、自宅で医者などに看取られての臨終だったという。