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失われた作品を求めて──ナチスによる略奪とグルリット・コレクション
木村浩之
2014年06月01日号
3. 事件
これまでの経緯をもう一度振り返ってみよう。
2010年9月22日、コーネリウスがスイス・ドイツ国境で、ドイツ税関により検査された。
その約1年半後の2012年2月28日、家宅捜索を行った税務署員により作品群が「発見」された。1,280作品。しかし、それらは一切発表されなかった。
2013年11月4日、ドイツの週刊誌『フォークス(Focus)』がスクープ。各国のメジャーな新聞・メディアが記事を引用し、一気に国際社会に知られることになった。
それを受けて2013年11月11日に、タスクフォースにより出典調査が行なわれるとドイツ政府が公式発表した。同時に、第一弾として25作品がインターネットのプラットフォームに公開された。実に発見から20カ月が経過していた。
2013年12月末よりグルリットに弁護団がつく。それ以降は、本人が直接メディアに出なくなる。スクープによって、突然メディアの注目を受け疲労困憊した彼は、数日間姿を消したこともあったが、そのことで、さらにつきまとわれるようになっていた。ある記者に見つけられた折には「私はボリス・ベッカー(のような注目されるべき人物)ではない」とも語っていた。
2014年1月、心臓手術を受ける。おそらくこの頃に遺書を書いている。
2014年2月中旬、オーストリア・ザルツブルグにあるグルリットの別邸で、238作品が見つかった。グルリット自身、オーストリアのパスポートを持ち、住民登録はザルツブルグにあるにもかかわらず、過去数年間そこを訪れていないという。作品は弁護団により、盗難防止のため秘密の場所に移動された。
2014年4月7日、ナチスによる略奪が認められた作品は自主的にもとの所有者に返却する、そしてその調査のために1年間作品群を当局に委託するという契約書をドイツ政府との間に結んだ。ちなみに弁護団いわく、現在の法のもとでは返却の義務はないという。
2014年5月6日、グルリットがミュンヘンの自宅で息を引き取った。作品押収から2年強、スクープから半年、彼は「他の何よりも愛していた」という作品群を再び目にすることはなかった。
2014年5月7日、グルリットの遺書により、彼の全財産をベルン美術館へ贈与することが、弁護団より発表された。
さて、ここで問題となる要点は以下のようになろう。
(1)ナチスによる略奪行為。
(2)父ヒルデブランドによる作品収集方法の非合法性の有無。
(3)グルリットの家宅捜索の合法性。
(4)「発見」を当局が2年間近くも秘密裏にしていたこと。
(5)ドイツで起きた事件であるにもかかわらず、グルリットがオーストリアに住民届けを出していること。
(6)オーストリア国内に置かれている別の作品群があること。
(7)遺言により全作品が第三国スイスへ移管されること。
(8)そして、戦後70年経過したいまになってこの事件が起こったということ。
当然の悪は(1)だ。それと関連して、現在まだ実証されていないが(2)が「非合法的」と判断された場合、当然(2)も悪の根源だ。それら過去の犯罪は当然として、現在の論調は現在のスキャンダルである(4)と(8)にある。そして(5)(6)(7)がそれに輪を掛けて、ナチス略奪絵画発見では「戦後最大」と言われるこの事件を複雑にしている。
戦後、さまざまなナチス関連の検証が行なわれてきたが、略奪された作品の返還に関しては(ホロコースト問題などに比べ)「プライオリティが低く」後回しになっていた事実がある。実際、やっと1990年頃になって、ユダヤ人被害者が多く亡命したアメリカを中心にして議論されるようになった。
また、ナチスにより略奪された作品は、もとの所有者および遺族に返却すべきであるとし、その手続きを容易にすることを国際的に定めた「ワシントン原則」が採択され、スイスを含む44カ国がこれに合意したのは、1998年になってからなのだ。それまでの半世紀近く、返却の事例はあったものの、法整備に関してはほぼ放置状態であった。そんなに時間を経て再燃したのは、冷戦の終了という政治的世界状況の変化もあるが、当時を知っている遺族ら(主に孫)が高齢に達し、さらなる世代交代による情報の欠損を防ぐために機運が高まったとも考えられる。
ドイツでも、グルリットのコレクション作品の公開などを行なっている遺失文化財連絡調整局が設立されたのは、1994年だ。作品のデータベース化と作品返却にあたり煩雑となる手続きを一本化し簡素化することを目的としているが、これも同様な機運の高まりを受け、ドイツ政府の肝いりで、戦後50年を前にしてやっと創立されている。
こうしてドイツ政府も本腰を入れて過去の清算にあたるはずだった。しかし、今回の事件では2年近くも国際社会に公開せず内部メンバーのみで秘密裏に調査していた態勢に、それも脱税疑惑を扱う税務局の管轄のまま放置されていたことに大きな非難を浴びることとなった。
さらに、オーストリア・ザルツブルグで2月になって発見された238作品は、ドイツのタスクフォースの調査対象となっていない。それは単純に、発見された場所がドイツ国内ではなかったからだ。現在の法体制は、そういった状況を想定していないのだ。弁護団によると、ザルツブルグで「発見」された作品はグルリット本人の意向により現在ウイーンの「安全な場所」に保管されているという。オーストリアではグルリットは脱税などいかなる容疑も掛けられていないため、当局の捜査を受けたり、作品を押収されたりということはしていない。「ワシントン原則」は、基本的に公共の施設や団体に適用されるもので、グルリットのような個人は対象外なのだ。しかし、「グルリット本人の自主的な意思」で、作品の出典調査が依頼されていたという。とはいえ、どんなスケジュールで、どんなチームがそれにあたっているのかなど、詳細は伝えられていない。ただ、モネ、ルノワール、ピカソなどを含む一部公表されている作品のなかには、戦後に購入されたものも多くあり、すでにナチス略奪の可能性は低いとされている。ミュンヘン自宅にあった作品群よりもザルツブルグのものは質の高い作品が揃っているとの憶測もあり、作品収集経緯に関しては、こちらの方が多くの関心を集めていると言っていい。
さらに、スイスの美術館がそれらすべての遺産を相続すると、どうなるのか。ドイツの未解決の問題のためにスイスの税金が使われるのは避けなければいけない、というのがスイス国内での反応だ。ベルン美術館ディレクターは、「不動産などの相続品の一部を売却することで、さまざまな費用をまかなわなくてはならない」とあるインタビューで答えている。しかし、贈与品・作品の一部を売却するとなると、ドイツの贈与税(50%)がかかってくる可能性が高い。さらに、たとえもとの所有者やその遺族が現われなかったとしても、ナチス略奪の疑いの強い作品を、公共の美術館に受け入れ、展示することの倫理的問題もある。そういった理由でスイス国内の専門家からは、受け取りに否定的な声も多い。ただ、ベルン美術館は、「取り沙汰されている主要作品の一部あるいはひとつでも受け取れるなら、他の労力も厭わない」と楽観的な見解を述べている一方で、決断までに半年の猶予があり、その間に厳密に調査するとしている。もちろんスイスもワシントン原則に加盟しており、ナチス略奪財産の返還に協力的な立場をとっている。1997年以降、スイスの銀行が、第二次大戦後一切動きのない口座の名義を一斉公開して話題になっているが、ホロコーストなどで名義人本人が亡くなっていることなどを想定してのことだ。ワシントン原則の制定に向かわせた世界の風潮が、いわゆる匿名口座法として知られたスイス銀行機密法を凌ぐものとして扱われたかたちだ。
ドイツ側にも、スイスへの相続に懐疑的な声がある。指定を受けた文化財を国外に持ち出す制限を定めた法律に引っかかる可能性があるとするものだ。さらには、当局はドイツのメンツにかけて急遽グルリットの作品群を持ち出し不可指定するのではないかという憶測まである。発見後2年間何もできず、解決を外国の手にゆだねることになったとしたら、それは大きなスキャンダルになる。
ドイツ側タスクフォースは、調査のための1年間の作品委託契約は、死亡1カ月前にサインしたばかりだったが、それはもちろん死後も有効だとしている。しかし、契約書には死後のことは一切明記されていないらしく、(経費などの問題から)スイス側が別の条件を求めてきたとしたら、再協議を余儀なくされるだろう。スイス側の思いとは裏腹に「ベルン美術館と協力しながら調査を進めていく」としているのだから。ただ、今回は相続人が市立美術館という公的機関だからよかったが、これがもし個人だったとしたら、上記の「ワシントン原則」の返却義務規定外となるため、相続人は調査を中止してすべて売却することだってできたのだ。この点に関しても、政府が調査契約を急ぎすぎたために詰めがあまかったと非難を受けている。
4. 謎
ひっかかる謎がいくつかある。
まず、なぜグルリットは、ミュンヘンに住みながら、ザルツブルグに籍を置いていたのかということ。そして、なぜベルン美術館を贈与先に選んだのかということだ。
もし、グルリットが、父から相続した作品群に違法性のあることを知っていたとしたら、国境をまたいで作品を分散させることで意図的に隠蔽工作を図っていたのではないか、とも想像したくなる。冒頭でも記したとおり、グルリット家は、ドレスデン(旧東ドイツ圏)の出身であり、ミュンヘンやザルツブルグ出身ではない。さらに、ザルツブルグでは、2度目の調査時に、1度目に確保した作品数60を大幅に上回る178作品が「手の届かない場所」から見つかっている。数日後に2度目の調査が行なわれたのは、コーネリウス自身が、60作品よりももっと多い作品を「隠し」持っていると示唆したからであろう。それはコーネリウスが、盗難防止のために隠した施策だったのだろうか。あるいは、もしかしたら父ヒルデブランドが、なんらかの目的で最も大事な作品を目立たないところに保管しておきたかったためになした工作だったのかもしれない。そして、息子コーネリウスは、それを知っていて、何かがあったときにはいつでもドイツを捨ててオーストリアへと逃避できるように、ザルツブルグに拠点を確保していたのだろうか。個人的には、ここに謎を解くヒントが隠されているような気がしてならない。
そしてベルン美術館の選択の謎だ。ドイツ国内では、グルリットがドイツ当局の強引な対応に不満だったため、作品を国外へ寄贈してしまおうと思いついたのではないか、などという声もある。でもなぜベルンなのか。ベルン美術館のコレクションは、パウル・クレーの作品が多いことで知られていた(現在はクレー美術館に移管)。クレーは、ナチスにより退廃芸術家扱いされ、当時活動していたドイツから生まれ故郷であるベルンへ戻っていた経歴がある。しかし、ベルン美術館のコレクション自体は、グルリットの作品群と重なるような作品に特に重点をおいているわけではない。
ベルン美術館側は、美術館として取引があったことはなく、またディレクター本人を含む従業員全員の誰ひとりとして個人的な付き合いのあった人はいないという。したがって、まったく寝耳に水だったようだ。ただ、グルリットが最初に税関員に質問されたとき、ベルンのあるギャラリーの名を挙げていた。そのギャラリーは「1990年以降取引がありません」と、その日の訪問を否定しているが、少なくともグルリットがなんらかのかたちでベルンと関わりがあったことだけは事実だ。もしそのギャラリーではなかったとしても、ほかに9,000ユーロの取引をした相手──名前を出せぬ誰か──がいたのだ。その相手が誰なのかが将来明かされることはないだろうが、もしかしたらグルリットは、グルリットの作品群に関心を持ち、長らく取引に応じてくれたその人の近くに残りの作品を置いておこうと決めたのかもしれない。それはあまりにロマンチックすぎる妄想だろうが、個人的には、ベルン美術館という唐突な贈与先の指定にも何かヒントがあるような気がしている。
いずれにしても、グルリットの死によって、本人を証人席に迎えて裁判がされることはもうなく、これら憶測も妄想もそのまま封じられてしまうこととなった。
5. そして調査は続く
この事件は、作品数が多かったことや、国際的に入り組んだ状況、グルリット本人の不思議な人物像、そしてドイツ当局の不手際から、大きな注目を浴びている。しかし、その複雑性においては、実はこの事件だけが取り立てて珍しいものではないかもしれない。
グルリットの作品群を巡っては、すでに複数の「所有者」が名乗り出ている作品や、「所有者」認定がほぼ確実だった91歳男性が、作品を受け取る前に亡くなっているケースが報告されている。しかし、これらはグルリット事件に特有なものではなく、どのケースにもありうる状況だ。
グルリットの場合は、脱税というまったく別の嫌疑で家宅捜索を受けたことにより、作品が偶然発見された。そういったことでもない限り、現在まで暗黙してきた現保持者から作品の存在が明るみになることはないだろう。
現保持者は、作品を不当な方法で取得した当人ではなく、それを相続した、あるいは後の転売により取得した者だ。奪った、あるいは二束三文で買い取った当人は、その記録を消すために、当時の書類等は何も残していないはずだ。グルリットの場合がそうだ。そして被相続者は、その事実を聞かされずに相続しているかもしれない。転売により取得した者の場合は、なおさら知らされていないだろう。
同時に、もとの所有者も当時作品を所有していることをナチスから隠そうとするために、作品所有を証明できる書類など一切破棄してしまっている場合もあるだろう。そして多くの者が殺害されているのだ。生き残った者も、一切所持品を持たずにアメリカなどに亡命した者らだ。したがって、現在「所有者」として名乗りでている当時の所有者の孫らは、「おじいさんのところで見たことがある」という証言しか出せない場合も少なくない。
それから70年も経ってしまっている現在、できることはあまり多くないだろう。だからこそ一刻も早く、ひとつでも多くの作品が発見され、もとの所有者一族へ返却される道が開かれることを強く願う。