フォーカス
芸術作品における「魅惑の形式」のための試論
上妻世海(作家・キュレーター)
2016年10月15日号
対象美術館
2──「自律性」と「関係性」から見る2つの差異
「芸術祭」と銘打っている以上「さまざまなラベルの関係性の中で分節された芸術というラベル」ではなく「芸術を芸術として成立させている基盤」が重要になる。つまり、音楽祭やゲームフェスタといったほかのジャンルとの関連性によって認知できる差異のように、既存の構造的コードとの関連性によって認知できる差異(差異としての差異)であってはならない。では、関係性の網目の中で定義されるのではなく、自律的に「何か」を定義しうる差異とはどのようなものだろうか?
ボリス・グロイスは『新しさについて』という論考で次のように述べている。
そのような差異の例としてキェルケゴールは、イエス・キリストの姿を挙げる。実際、キェルケゴールは、キリストの姿がもともと当時の普通の人間の姿をしていたことを指摘する。言い換えれば、当時の普通の人は、キリストの姿と出会っても、キリストと普通の人間とを見分ける具体的な差異、キリストが単なる人間ではなく神でもあるということを示す視覚的な差異を見つけることはできなかった。したがって、キェルケゴールは、キリスト教は、キリストを神として認識できないこと、キリストを異なるものとして認識することの不可能性に基づいていると主張した。さらに、このことは、キリストが「真に」新しいのであり、単に異なっているだけではないことを暗示する。そして、キリスト教は差異のない差異、もしくは差異を超えた差異の出現なのである。それゆえにキェルケゴールにとっては、新しさが出現しうる唯一の手段は、普通であること、差異のないこと、同じであること、他者ではなく同類であることであった。
ここで「差異なき差異」が出現しうる唯一の手段は、普通であること、差異のないこと、同じであること、他者ではなく同類であることだと書かれている。つまり、視覚的な差異、現象としての属性や性質に基づく差異は存在しないということが条件となっているのだ。
しかし、その場合、「差異なき差異」をどう扱うかという問題が生じる。ここで補助線として、柄谷行人が『探求Ⅱ』においてまたもキルケゴールの文脈を引き受けたうえで同様の問題について語っている部分を引用する。
私はここで「この私」や「この犬」の「この」性を単独性と呼び、それを特殊性から区別することにする。単独性は、あとでいうように、単にひとつしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。例えば、「私がある」と、「この私がある」とは違う。「私がある」の私は一般的な私のひとつの特殊であり、したがって、どの私にも妥当するのに対して、「この私がある」の私は単独性であり、ほかの私と取替えできない。むろん、それは、「この私」がとりかえできないほど特殊であることをすこしも意味しない。「この私」や「この犬」は、ありふれた何の特性もないものであっても、なお単独的なのである。[中略]キリスト教においてはむしろそのことが強調される。例えば、イエスがいう「九十九匹の羊より一匹の迷える羊」という寓話は、個人や少数意見を尊重するといった原理とはまったく異質である。それは数量の問題ではない。一匹の羊とは、個物ではなく、この羊のことである。九十九匹のそれぞれがこの羊なのだ。この羊は足し算できない。足し算は羊という集合においてのみ可能である。とすれば、キリスト教は、集合(一般性)に入らないような個体性、つまり単独性をはじめて見出したといえる。
さらに柄谷は恋を例にあげる。
ある個体の単独性と特殊性の区別は、つぎのようにも考えられる。例えば、ある男が失恋したときに、人は「女はほかにいくらでもいるじゃないか」と慰める。こういう慰め方は不当である。なぜなら、失恋した者は、この女に失恋したのであって、それは代替不可能だからである。この女はけっして女という一般概念には属さない。したがってこういう慰め方をするものは恋愛をしらないといわれるだろう
「単独性」「差異なき差異」とは「この性」であり、既存の構造的コードとの関連性を持たない代替不可能な自律性として定義されているということである。つまり、現象としての特性や性質の違いによって浮かび上がる差異ではなく、「代替不可能な私であり、貴方であり、作品」として浮かび上がる差異である。そして、「芸術」が「商品」と異なる理由は、この非-関係的な自律性をつくり出せているからである。もしそれを説得的に示し得ないのであれば、それを「芸術」であると同定することができない。言い換えると、定義上「芸術祭」というシステムはそのシステム自体に対して「芸術作品」という剰余部分を含んでいなければならないのである。