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芸術作品における「魅惑の形式」のための試論

上妻世海(作家・キュレーター)

2016年10月15日号

4──魅惑について

 これまでの議論を整理していこう。


(1)日常において僕たちはモノを目的-ネットワーク(道具連関)の元で実践的に捉えている。

(2)その目的は僕たちが日常生活を営む社会環境に依存する。そして、その目的-ネットワーク空間の中で、僕たちの「態度」が内在化され、それに基づいた標準的な「時間」が生成される。

(3)「芸術作品」は一般性-特殊性(確定記述の束)という軸では語りえない単独的・自律的な時間を持っていなければならない。何故なら、一般性-特殊性といった既存の構造との関連性から定義されるものではない単独的自律性として「芸術作品」が定義されているからである。

(4)「芸術作品」はなんらかの仕方で、日常空間とは異なる時間をつくり上げる。人はその空間のひとつのオブジェクトとして「芸術作品」の「時間」を非対称でありながら作品とともに生成する。例えば、飴屋法水の『何処からの手紙』において、鑑賞者はシステムが計画している単線的な時間のなかで、ある場所の風景を見る。しかし、その作品は鑑賞者に現前している風景と単純に「見ること」という関係性を結ばせるのではなく、物語を「読むこと」あるいは過去と「比較すること」といった複数の限定的な関係性を結ばせることによって、予期された時間とは異なる「時間」を生成する。それは写真を撮ること、共有することといった活動の目的を逸脱する。

(5)上記の命題を満たしたうえで「芸術祭」であるためには「芸術祭」というシステムはそのシステムの内部にシステムを超える余剰を抱えていなければならない。何故なら、システム自体が持つ「時間軸」とは異なる時間を持つものでなければ「芸術作品」ではないからである。



 しかし、上記の考察はひとつの疑問を提示させる。「芸術作品」だけが自律的であると定義する根拠は何か? と。

 例えば、グレアム・ハーマンによると、すべてのオブジェクトは等しく汲み尽くせない自律性を維持している。彼によると、僕たちは日常のうえでモノを目的-ネットワークの上で道具として実践的に捉える。しかし、道具はまさに壊れるという事実によって、目的のシステムに完全に統合されることの不可能性を示す。道具は壊れる。何故なら、道具は少し過剰な何かだからであり、その過剰性を完全に搾取することができる目的-システムは存在しないからである。さらに言えば、「使うこと」は「見ること」「味わうこと」などと同様にそのオブジェクトを汲み尽くすことができない。人間の認識にのぼらないハンマーのほかの特徴たちは、蚊、バクテリア、天使、釘にとってより大きな関連性を持っているかもしれないが、人間には翻訳されないまま留まっている。人による関係性に問題がある訳ではない。それは関係することそのものの限界なのである。あらゆる限定された関係性を結んだとしても、オブジェクトは完全に汲み尽くすことができない。つまり、あらゆる限定された関係性から隠遁した領域が存在している。ハーマンはその領域のことを「実在的オブジェクト」と呼び、あらゆるオブジェクトが自律性を持つことを示す★12

 しかしここで、ハーマンにとって問題が生じる。すべてのオブジェクトにあらゆる種類の関係性から隠遁した領域が存在しているなら、僕たちはどのようにして実在的オブジェクトと関係しうるのか、知りうるのか? という問いが生じてしまうからである。僕たちが対象について知りうる方法が「限定された関係性」を経由することのみであるなら、それについて知り得る方法は存在しないことになってしまう。そこで、彼が導入するのが「魅力(allure)」「代替因果」という概念である。彼は以下のように述べる。

感覚的対象とその性質との分離は、「魅力(allure)」と呼ぶことができる。魅力という用語は、正確には、魅惑する感情的効果を指し示しており、人間にとってはしばしば性質の分離という出来事が伴っている。また魅力という用語は、関連した用語として「暗示(allusion)」を示唆している。というのも、魅力はたんに対象を暗示する──その内的な生を直接に現前させることなしに──のだから。[中略]わたしたちに必要なのは、感覚的対象がその結合された統一的性質から切り離されるという経験である。というのもその経験は、表層上の単一の性質の下に横たわる実在的対象を指し示すのだから★13

すべてのコンタクトが非対称的だということである。しかしながら、わたしは深く世界に潜り込んでいて、感覚的対象以外にはなににも出会わないし、実在的対象もわたし自身の感覚的外見以外には出会わない。代替因果の肝心な点は、二つの対象が接触することなしになにかしら触れあうということである。感覚的な領域の場合にこのことが起こるのは、志向の行為主体たるわたしがさまざまな感覚的対象の融合の代替因果の役割を果たすときである。ただし、その融合は部分的なものであって、余分な偶有に覆われている。実在的対象の場合には、実在的対象に接触することなしに触れる方法はただ一つ、魅力を通してである。魅力においてのみわたしたちは、感覚的対象の香りのなかで堂々巡りしてしまう行き詰まりから、逃れられる。そして、肉体的に現前するというよりも、離れたまま合図を投げかけるような、そうした事物に属している性質に出会うのだ。★14

 しかし、僕がハーマンに対して不満を感じる点は、第1にその定義の曖昧さにある。引用した部分にあるように、ハーマンにとって「魅力(allure)」とは理論的整合性を整えるために要請されているだけのように見えるのだ。つまり、実在的オブジェクトが文字通り「実在」しているためには、その存在をなんらかの仕方で知覚できる必要がある。しかし定義上、「使うこと」でも「見ること」でも「触れること」でも汲み尽くせない「何か」として実在的オブジェクトは定義されているため、限定的なさまざまな関係性によって実在的オブジェクトを経験することはできない。なので彼は「魅力」に対して「接触することなく触れる」という何を具体的に指しているのかを示し得ないものによって定義せざるを得ないのである。

 第2の不満として、ハーマンの体系のなかでは、あらゆるオブジェクトは汲みつくせなさを持っており、それを仄めかす「魅力(allure)」によってその汲みつくせなさを知りうると主張する点である。仮にあらゆるオブジェクトが「魅力」を持っているなら、それを感じられないのはその仄めかしに勘付かないオブジェクトに原因があるということになる。しかし、すべてのオブジェクトに魅力があるのであれば、そもそもアーティストが作品をつくったり、キュレーターが展覧会を企画したりするような意味などない。もしこのような世界であれば、必要なのは鑑賞者の「魅力」を感じ取る能力だけということになる。また、経験的に僕たちはほとんどすべてのオブジェクトに無関心なまま生活している。僕たちは日常生活のなかでは目的-ネットワークの上でモノを道具的に実践的、あるいは一般性-特殊性といったかたちで抽象的に捉えている。「壊れる」に相当する装置がなければ僕たちは「見ること」も「嗅ぐこと」も「分析すること」もない。そして、僕たちはこのさまざまな「壊れる」に相当する出来事に出会うことによって初めて、さまざまな「限定された関係」による翻訳・歪曲を行なう。それによって、僕たちは汲みつくせなさに出会うのである。つまり、僕たちはシステムから脱することなしに「実体」の汲み取れなさに出会うことはない。

 僕たちはところ構わず何であれ恋に落ちるわけではない。すべてのオブジェクトを「この性」を持った他者として扱うことは現実的に不可能である。日常生活のうえで僕たちは一般性-特殊性という集合概念を操作することでシステムの中で生きるのだ。そして、だからこそ、僕は経験的には、この「壊れる」に相当する出来事を発明すること、「使うこと」だけでなく、さまざまな仕方で関係性を結びたいと思わせることを「魅惑」であると再定義したい。美術家として、初めから備わっている「魅力」に頼るのではなく、僕たちはほかのオブジェクトを「魅惑」する技術を必要としているのだ。僕たちは魅惑されるとき、ツアーのスケジュールや明日の計画を忘却し、時間の許すかぎりさまざまな仕方で「芸術作品」に触れたいと思う。それは御岩神社の「自然」や飴屋法水《何処からの手紙》で僕が体験したことである。そして、それはどんな仕方であっても「完全に」汲み尽くすことができないが故にありありとした「時間」が生成される。つまり、魅惑されること、恋に落ちることによって「秘密」が露わになるのである。あるいは恋に落ちることによって、「時間」がひとつではないことを知るのである。




 恋に落ちた僕たちにとって、それはまるで世界の秘密のように見える。便利で効率のよいシステムとは異なる世界にいるように感じる。しかし、僕らはその態度を忘れかけているのではないだろうか? そのひとつの例として、人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロがアメリカ大陸先住民のシャーマニズムについての記述を引用したい。彼は『アメリカ大陸先住民のパースペクティヴィズムと多自然主義』のなかで、次のように述べている。

シャーマニズムは、知ることの様態を暗示する行動の様態、あるいはむしろ、知識に関するなんらかの理念である。この理念は、いくつもの面で、西洋的近代において優遇されてきた客観主義的な認識論の対極にある。後者において客体(=対象)というカテゴリーは、目的を産み出す。すなわち、知ることは客体化(=対象化)することである。そして、認識主体に属するものや、望まぬかたちで、あるいは/そして、不可避的に対象に投影されるものから客体自体に本来的であるものを、客体において区別できることである。さらに、知ることとは脱主体化すること、現前する主体の一部を、理念的な最小量にまで減ずるようにして、対象のうちに明らかにすることなのである。客体と同様、主体は客体化の過程の帰結とみなされる。主体は、それが産出する客体とともに構成され、認識されるようになり、そして、ひとつの「あれ」として「外から」見られるようになる時に、客観的に知られるようになるのだ。われわれの認識論的なゲームは、客体化と呼ばれる。客体化されないものは、非実在的か抽象的なままである。〈他者〉の形式とは、モノである。
 アメリカ大陸先住民のシャーマニズムは、正反対の理念によって導かれているように思われる。知ることとは人格化することであり、知られるべきあちら──向こうというよりも、あの者の──視点に立つことである。つまり、シャーマンの知は、「誰か」すなわち別の主体や行為者である「何か」に照準を合わせている。〈他者〉の形式とは、人格である★15

ヴィヴェイロスのこの指摘はとても興味深い。僕には、これは西欧近代主義者とアメリカ大陸先住民のシャーマニズムの「知ること」に対する態度の差異を単に示しているのではないと感じられる。何故なら、哲学とはそもそも「知への愛」を意味していたのだから。つまり、現在のように、多くの知識によって対象を詳細に記述し分類することが「知ること」ではなく、愛することが「知ること」であると、西洋近代の源流にある古代ギリシアの哲学者たちは知っていたのである。僕たちは魅惑されることを忘却している。恋に落ちること、ここから「知ること」の旅が始まるのだ。最初に引用したドゥルーズの言葉には、じつは続きが存在している。「トインビーの一文に感銘を受けたことがあります。『放浪の民とは、動かない人たちのことである。旅立つことを拒むからこそ、彼らは放浪の民になるのだ』というのがそれです。」★16彼はそう述べている。システムを拒むのである。魅惑されることによって。そして、僕たちはツアーという「商品」にパッケージングされた旅人から、未知なる時間への放浪の民になるのだ。

 小林秀雄は『物質への情熱』のなかで「詩人は美しいものを歌ふ楽な人種ではない。在るものはたゞ現実だけで、現実に肉薄する為に美しさを頼りとしなければならぬのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるといふ事を頼りにするのが絶対に必要な様なものである」と述べている★17。「芸術作品」には、詩人が美しさに魅了されて現実に肉薄するように、女に肉薄するために惚れることを頼りにするように、僕たちを何かに「真摯に」向き合わせるもの=魅惑が必要なのである。

 そして「魅惑の形式」の新たな開発こそが美術家の役割であると、僕は考える。モノはつねにひとつの仕方で「壊れる」のではない。ハンマーが文字通り「壊れること」を通じて「見ること」「触ること」とは「違う仕方」で、他者を魅惑し、さまざまな関係性を結びたいと思わせる形式を発明しなければならない(誰でも思いつく一例を挙げれば、イメージと言説による神話創造によってつくり出されたデュシャンの《泉》を思い起こしてほしい)。「読むこと」「聴くこと」「見ること」「分析すること」などさまざまな限定的関係性の束によって、モノは自律性を賦与されるのだから。

ここでハーマンの魅力の概念と僕による再定義を整理する。

ハーマンによる定義

「魅力(allure)」はあらゆるオブジェクトが持っている実在的オブジェクトを仄めかす感情的効果である。その感情的効果は感覚的対象とその性質を分離することで、オブジェクトの実在性を仄めかす。「魅力」とは「接触することなく触れること」である。

「魅力(allure)」を「魅惑」としての再定義する

「魅惑」は少なくとも経験的にはあらゆるオブジェクトに備わっていない。僕たちは日常においてほとんどのオブジェクトに無関心のまま生活しているし、その仄めかしに心奪われることはない。「魅惑」は、他者を惹きつけ、さまざまな限定的関係性を結びたいと思わせるものである。僕たちは魅惑されることで、さまざまな関係性を結びたいと動機づけられる。その複数の接触の束がモノに生々しい「自律性」「代替不可能性」「この性」「人格性」を賦与すると同時に汲み尽くせない「秘密」を産み出す。「魅惑」は「接触することなく触れること」ではなく「さまざまな仕方で関係性を結びたいと思わせる」技術である。美術家はオブジェクトを惹きつける新たな「魅惑の形式」を発明することで、モノから「商品」ではなく「芸術作品」を生成する。


そうであれば、先の(3)における「芸術作品」の定義を次のように更新する必要がある。


(3)「芸術作品」は一般性-特殊性(確定記述の束)という軸では語りえない単独的・自律的な時間を持っていなければならない。何故なら、一般性-特殊性といった既存の構造との関連性から定義されるものではない単独的自律性として「芸術作品」が定義されているからである。

(3)「芸術作品」は他者を惹きつけ、システムを乱しうる「魅惑」をもっていなければならない。翻って「魅惑」あるものを「芸術作品」と定義できる。「魅惑」を入り口にオブジェクトを惹きつけることによって「差異による差異」つまり関係性に基づく差異ではなく、自律的に循環論法的に単独的に、ひとつの閉鎖系として「芸術作品」を定義することができるようになる。ヴィヴェイロス風に言うなら、「芸術作品」は比較し得ない平面の起点である「人格」として、向こうというよりも、あの者の視点に立つような作法で接せられる。この観点から見ると美術の歴史は新たな「魅惑の形式」を産み出す実験の歴史であり、その形式によって「芸術作品」は自律性を確保してきたと言える。僕たちは美術史を「魅惑の形式」の発明史として描き直すことができるだろう。


 「魅惑の形式」という軸を導入することで、これまで描けなかった歴史を別の仕方で再度描きなおすという可能性を得た。オブジェクトのつくり方だけでなく、オブジェクトに付与される歴史、言説、イメージを産み出すための神話創造の方法も含めて、「魅惑」を生み出してきた手法、方法を再度検討することにしよう。そして、その検討の結果を実践することで未来へと折り返すことにしよう。そうすることで、これまで美術史のなかで取り扱われてこなかった領域や低く見積もられてきたジャンルの重要性を再度検討でき、予期されうる計画的な時間から、自律しながら併存する異なる物語へのトランスポーテーションを可能にするだろう。


★12──グレアム・ハーマンのオブジェクト論についての拙訳は以下で読むことができる。
https://note.mu/skkzm01
★13──ハーマン「代替因果について」『現代思想』vol.42 特集=現代思想の転換2014(岡本源太訳、青土社、2014)p.110
★14──ハーマン、前掲書、p.113
★15──E・ヴィヴェイロス・デ・カストロ「アメリカ先住民のパースペクティヴィズムと多自然主義」『現代思想』2016 3月臨時増刊号 総特集=人類学のゆくえ(近藤宏訳、青土社、2016)p.46
★16──ドゥルーズ、前掲書、p.277
★17──小林秀雄「物質への情熱」『小林秀雄全集 第1巻』(新潮社、2002)

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