フォーカス

芸術作品における「魅惑の形式」のための試論

上妻世海(作家・キュレーター)

2016年10月15日号

5──「魅惑の形式」その非-理由性、あるいは一人称の物語の終焉

 しかし、「魅惑」をすべて説明し尽くすことはできない。「魅惑」された理由が相手や対象の性質に還元されてしまうのであれば、その性質は代替可能であるが故に、その愛も代替可能となってしまう(故にそれは愛ではない)。つまり愛とは本質的にはその対象がもつ性質や属性とは無関係であり、恋に陥るということは、理由なく始まってしまうものでなければならないのだ。だからこそ恋人たちは「どうして私なのか?どうしてあなたなのか?」という問いを捨て去ることができない(理由が存在しないから)。また、どのオブジェクトがどのオブジェクトに恋に落ちるかを説明することはできない。それも上記と同様の理由で、非-理由的でなければならないからである。さらに、それは非対称的なものである。僕が恋に落ちることは、相手や対象が僕に恋に落ちることを意味しないからである。

 松浦寿輝の『物語』という詩は「一人称の物語はここで終る もう手袋のほころびやテーブルの上の焼け焦げをかすめては消えてゆく」で始まり「それは物語の終焉ではなくて 終焉の物語のはじまりにすぎないのか 愛しています あなたを愛しています あなたを愛しています あなたを愛しています あなたを」で終わる★18。確かに、松浦は愛の詩として、この一節を書いたかもしれない。しかし、これは恋に落ちる対象が人間だけでなく、動物や芸術作品、あるいは無機物であった場合にも当てはまるだろう。

 孤立し隠遁している複数の時間軸が無関係のまま世界に存在している。システムは便利で快適なので、僕たちはこれからもほとんどすべての時間軸に無関心なまま暮らしていくだろう。しかし、ときに、偶然に、あるいは何かの意図に寄り添うかたちで、僕たちは魅惑されてしまう。一人称の物語はここで終る。他者の、モノの、作品の魅惑によって、僕は自らのタイムラインを脱する、脱せられてしまう。そして僕は、他者の、モノの、作品の時間軸を狂おしいほど求める。非対称なまま、味わい、道具として用い、まじまじと眺める。そして、触り、嗅ぎ、理論的に分析するかもしれない。秘密に辿りつくことはないまま。バラバラな僕たちは手探りしながら、馬と調教師のように、犬と友達になることのように、あるいはカタログをかき集め、そのアーティストの歴史や美術史、視線誘導や実践的な技法について学び始めるかもしれない。それは分かり合えないモノ同士が、分かり合えないまま、不安定な約束を結ぶことである。そして、異なる2つの時間軸の「間」に共通の時間を仮設することである。不安定な約束、そこに流れる時間。それは物語の終焉ではなくて、終焉の物語のはじまりにすぎないのか。そうであるなら、仮設することも、放浪することも、恋に落ちることも、素敵なことだと、僕は思う。


★18──松浦寿輝「物語」『ウサギのダンス』(七月堂、1982)



(2016年10月20日「4──魅惑について」加筆修正)
(2018年10月9日「1──『旅という態度』と『芸術祭』の現在性」加筆修正)

KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭

会期:2016年9月17日(土)〜11月20日(日)[65日間]
会場:茨城県北地域6市町 日立市 高萩市 北茨城市 常陸太田市 常陸大宮市 大子町
主催:茨城県北芸術祭実行委員会

フォーカス /relation/e_00037569.json l 10128591
  • 芸術作品における「魅惑の形式」のための試論