フォーカス
黒いコードの群れ──「クリスチャン・ボルタンスキー─Lifetime」展
北野圭介(映画・映像理論、社会理論/立命館大学映像学部教授)
2019年04月15日号
対象美術館
瀬戸内国際芸術祭や大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ、さまざまなグループ展で、これまでにも多くの作品を日本で発表してきたクリスチャン・ボルタンスキー。今年2月9日から、大阪の国立国際美術館で開催されている「クリスチャン・ボルタンスキー─Lifetime」展は、彼の1960年代末の初期作品から最新作までを網羅する日本初の大規模な回顧展である。自身によって構成されたその展示会場は、まるで大きなひとつの映像音響装置のようである。「物質」「テクノロジー」「情動」をテーマに映画、メディア、社会を洞察する北野圭介氏は本展をどう見ているのだろうか。(artscape編集部)
赤橙色の電球にだらしなく垂れ下がった何本かの電源コード。うねるように床に並べ立てられた電源コードの分厚い束。青く光る電飾器に半ば隠れるかのように頼りなげに壁に垂れ下がる電源コード。これ見よがしに前面に現れているのではない。あちらこちらで己の身を隠すかのようでさえある。だけれども、おそらくは訪れた者の意識の底に留まってしまうだろう、黒い電源コードの群れ。だらしなく、うねるように、頼りなげにと書きつけてしまったが、だからといってそれが、ときに「宗教的」とも「神話的」とも称されたりもする、作品周りに張りめぐらされた緊張感をいささかも損なってはいない。いやむしろ、かえって、観る者の心身を吸い込んでいくような磁場で仄暗くたゆたう光と闇のこわばりに、いっそうの強度を与えているようにしか思えない。
下手をすると厳かさとはおよそ無縁であるかのような、つまりはチープな俗っぽさに結びついてしまいかねない、黒いビニールで包まれた電源コードの群れ。それらがなぜかくも観る者のからだをこわばらせるのか。どうして観る者のこころを張りつめさせるのか。
国内外の美術館や芸術祭で、折に触れボルタンスキーの作品に出逢う機会に恵まれてきたものの、特に焦点の定まらない受け止め方しかしていなかったのだが、今次、その足跡を大きくマッピングする国立国際美術館での回顧展に足を踏み入れたとき、頭のなかを駆けめぐっていたのはそうした問いだった。地下深くに設けられた大きな展示空間を歩きながら、めくるめく作品展開に眩暈も覚えながら、である。それほどまでに、黒い電源コードは、意識の底を震わしたのである。
電源コードがこわばらせる気配
そこに、シュールレアリスム論者が悦ぶような不気味さが浮かび上がるわけではない。脱構築論者が見出したがるような構造の陥没が見出されるわけでもない。もちろん、プロセスアート好きが列挙したがったような制作過程の痕跡が看取されるわけでもない。壁に、床に、天井に、だらしなく、うねるように、頼りなげに並べ立てられているだけだ。それはいったい何をわたしたちに贈り届けようとしているのだろう。
いくつかの展示物を振り返りながら、なんとか接近してみたい。薄暗いなかであったので明瞭には判断できないが、おそらくは黒い厚手のコートと思しき丈の少し長い上着が袖をきちんと広げかけられている。輪郭線に沿って青い電飾が取り囲んでもいる。その電飾には、壁をつたわせた、何本もの黒いコードがつながっている。どこかのブティックのように色鮮やかな光のセッティングで飾られているというわけでは、むろんない。むしろ、薄暗がりは消費文化の華やかさを周到に斥けているし、着古されている布の状態はどこかのだれかが着衣していたであろうことを想起させてやまない。ほの暗いなか、青く光る電飾が囲んでいることは、それが故人のものであったのか、という連想さえ引きこむ。だとすれば、一種のフェティシズムが立ち現れているのか。電球とそれにつながる電源コードはその手助けをしているのだろうか。
小部屋の床でうねるように並べ立てられた数十本の電源コードはどうだろう。横に細長く四角い小窓のように開けられた壁の間隙から、それらコードの群れが這う隣の小部屋を覗きこむという設えの作品だ。電源コードはうねっていて、生き物がごとくであり、鼓動や呼吸音さえ聞こえてくるかのようだ。訪れた者がそこに感じ取ってしまうのは、一種のアニミズムかもしれない。フェティシズムというよりは。
あるいは、数百着はあろうかと思われるほどの黒いコートがごく小さな丘がごとくにうず高く積み上げられた作品はどうか。黒いコートの丘の周囲にはゆるく外縁に沿って十体ほどの木板でできた人型が不規則に立ち並んでもいる。人型にはかろうじて見える程度なのだが、同じ種類のコードが着せられていて、胸襟の奥にセットされた小さなスピーカーから「光が見えましたか」という声が日英両語で小さく拡声されている。黒いコートが話しかけているのだろうか。誰に? あなたに? あるいは積み上げられた死者のコートに向かって? いや、もしかすると、自らも他界していて、その彼岸の場所からなのかもしれない。ここでもまた、何かの気配が感じとられてしまう。フェティシズムのような、アニミズムのような。
そうなのだ、作品とわたしたちの心身との間で輪郭を定めないままに混濁し、さらには漏れ出してしまう、澱のように漂う気配。フェティシズムともアニミズムとも形容したくもなる、でも、どちらでもないようにも感ぜられる、気配。そんな気配が、展示物の連なりのあちこちで観る者のこころとからだを包み込む。電源コードは、そうした気配をこそ充電しているかのように、ところどころで顔をのぞかせているのだ。
イメージと機械が担う祭壇
写真集などで眺めていた、小さな額縁に収められた白黒のポートレートが祭壇がごとくに壁の中ほどに飾られ、その周囲を赤橙色の電球が取り囲み、ロウソクのように、写真に映し出されている、あの初期の作品の連なりもいま一度考え直さないといけないのかもしれない。写真集のなか行儀よく整えられた画像のなかで、それらの作品が身にまとってしまう、悲痛なまでに厳かな佇まいは、実物の佇まいに触れるときはたして同じく作動しているのだろうかと。
2011年のヴェネツィア・ビエンナーレはフランス館の内部を埋め尽くした、巨大な鉄の機械群。大判サイズの何枚ものポートレート写真が、その機械群のなかをがっしゃんがっしゃんと担がれ、回され、送り流されていく。その粗野で激しい様子は、清冷な厳粛性とはまるで反対のもので、荒々しい騒音を辺り一面に鳴り響かせてもいた。ともすると、写真というメディアが日常に誘い込んでしまう沈思黙考のベクトルを野蛮さをもって切断するかのごとくだった。訪れた者の身体は、いわば、写真の物質的なおぞましさに立ち会わされることになっていたのだ。ロラン・バルト好きがしばしば書き込んでしまう、写真イメージと死の予感というロマンティックな命題ががっしゃんがっしゃんと切り倒されていくかのような具合だったといえば云いすぎだろうか。そういえば、第1回の瀬戸内国際芸術祭で設置され今次の企画展に導入部に部分的に据えられている心臓音のアーカイブからなる作品も、その大きな音の物質性は、心身の深奥にまで届くもので、甘美な共感のロマンティシズムなど砕け散らすものだったろう。
そうなのだ、ボルタンスキーにはいつの頃からか、あるいはそもそものはじめから、ロマンティックな儀礼への懐古趣味などは欠片もなかったのだとあっさりと認めてしまった方がいいのかもしれない。そうしたロマンティシズムへの仮託が商品化されてしまってすでに久しいが、それ以降の、芸術の潜勢力を救い出すことこそが賭けられているのではないだろうか。俗な、あまりにも俗な、黒い電源コードの群れは、安易なロマンティシズム、消費社会のロマンティシズムを食い破る企てのために、その作品群のなかで特権的なまでに前景化されているのではないか。わたしたちは、もう少し歩みをすすめねばならない。
角度を変えてみよう。わたしたちが引きずり込まれてしまうボルタンスキーの数々の企みには、写真をはじめ多くのメディアテクノロジーが介在している──今次の展示も、最初期の短編映画からはじまっている。とまれ、メディアテクノロジー、すなわち複製技術が世にもたらしたものは何なのか。多くの芸術論は、こう論じていた。絵画や彫刻などの大文字の芸術の系譜は、作品一つひとつが唯一無二であることから生じる、神なき近代においてなお存続する神々しさ(アウラ)を身にまとっていた。だが、そうしたアウラは、複製されたいくつものコピーがサーキュレイトする時代となって消滅しただろう、そう論じてきたのである。では、写真の周囲に電球を配し、光をあて直すボルタンスキーのいくつもの作品は、アウラの再生を企んでのことなのだろうか。
大小の黒い大きなダンボールが立ち並び、墓地のようにもネオン街のようにも見えてしまう展示室では、突き当りの壁に電飾で描かれた「来世」という巨大な文字が掲げられている。脇にはその電飾につながっている黒い電源コードが垂れ下がっている。評者が不意に想起してしまったのは、都会であれ地方であれ、いうところの場末のスナックにふらりと立ち寄った際の光景だ。カウンター奥の棚にところ狭しと並ぶ何本ものボトルの間に、病気で亡くなった主人の写真であったり、事故で失った娘さんの写真であったりが、小さな灯りとともに、ときには小さな花と一緒に、ちょこんと置かれている光景だ。灯りをともす機器や、傍らの調理器からはみ出している、電源コードとともに。そこに見出されるのは、手近な道具立てでであっても、近しい人を送りたいという静かな衝動ではないか。アウラそのものではないかもしれない。そうではなく、アウラじみた、フェイクであるかもしれないことも承知の上で執り行なわれる喪の作業ではないか。展覧会カタログに採録されている杉本博司との対談でボルタンスキーは個々人に内在している信仰の可能性を語ってもいるだろう。
現代における喪の作業
ボルタンスキーが誘うのは、かけがえのない近しい者を喪った彼女/彼が、個となった死の儀礼を執りおこなうしかなかった場への立ち会いではないか。その場への心身もろともの同席と言ってもいいだろう。第1回大地の芸術祭(2000)で披露された、洗濯物のように河原に簡素に吊るされた大量の衣服の群れには、見紛うことなく死の気配に充満していたが、それは、先に触れた心臓音のアーカイブで追及されていた、彼女や彼、あなたやわたしの、容赦のない個となった生の真ん中で鼓動する心臓音とまっすぐにつながっている。両者ともに、個々に砕け散ったままの生が叫び声をあげているかのようなのだ。
ときに引かれる「アウシュビッツ」という主題からはあまりに遠いといわれるかもしれない。だが、アウシュビッツで極限化した死の相こそ、絶対的に個化されながら迎えざるをえなかった死に、誰がいかにして葬いえたのかと問わざるをえなかった人類史のはじまりではなかったか。その意味では、それはわたしたちが現在時において抱え込まざるをえない死なるものへと曲がりくねりながらもつながっているだろう。現代は、それぞれが個々に自身の神をこしらえ、それにすがって生きていくしかない時代だとあるドイツの社会哲学者も少し前に書きつけていた。アウシュビッツにその先駆を認めつつだ。不条理な死の訪れが濃厚に辺りに漂いはじめているのは、日本の外でも内でも変わらない。「無縁仏」やら「直葬」やら「孤独死」という言葉が、あるいは哲学的用語に収まらない軌道をもって「剥き出しの生」という言葉が、サーキュレイトしている。本展のはじまりに据えられた、短編映画の画面のなかで激しく咳き込み嘔吐する身体は、わたしたちの身体、いや、このわたしの身体そのものであると。
情報化とメディアテクノロジーの発展が結合して、ひとが生きる生活世界の個別最適化がどんどんと進行している。それはそれで心地よく、効率的な生活を実現していて、喜ばしいことではある。だが、その生の裏にべったりと張り付く死の相についても個別最適化がすすんでいくのだろうか。いかなる手立てをもって喪の儀式が執り行なわれるのだろう。かくも個別化され、かくも簡素に加工された世界の組み立ての内側でかろうじて執り行なう者に残された手立ては、限られた道具で執り行なう偽物紛いの儀式でしかないのではないか。しかし、偽物紛いの儀式をおこなわざるをえないがゆえにこそ、その切迫さは烈しく屹立しているかもしれないのだ。
本展覧会は、黒い電源コードの群れともに、その切迫さを突きつけてくるのではないだろうか。急いで付け加えておこう。展覧会タイトルには「生命時間(lifetime)」と付されている。霊媒という意味ももつメディウムが、生命時間を搦めとりつつある、今日のメディアテクノロジーの罪を救済することができるのかをあたかも問うかのように。
クリスチャン・ボルタンスキー─Lifetime
会期:2019年2月9日(土)〜5月6日(月・休)
会場:国立国際美術館
大阪府大阪市北区中之島4-2-55
会期:2019年6月12日(水)~9月2日(月)
会場:国立新美術館
東京都港区六本木7-22-2
会期:2019年10月18日(金)〜2020年01月05日(日)
会場:長崎県美術館
長崎県長崎市出島町2-1