フォーカス
〈資料〉がひらく新しい世界──資料もまた物質である
鏑木あづさ(司書、アーキビスト)
2019年06月15日号
展覧会場に置かれている作家の直筆の手紙やスケッチ、当時のパンフレットやチラシ。以前は、展覧会場の終盤に、興味のある方だけご覧ください、とでもいうかのようにひっそりと置いてあったものが、いまでは作品と同じ並びで展示されていることがある。アーカイブや二次資料と呼ばれるそれらから、私たちは作品からだけでは得られない面白さや新たな発見を得る。この春、リニュアール・オープンした美術館のコレクション展で、そんな展示をご覧になった方も多いと思う。美術館の図書館司書として二次資料の収集・整理・保存・公開などに関わってきた鏑木あづさ氏に、展覧会のなかの資料展示についてご寄稿いただいた。(artscape編集部)
展示室に入ると、まずは『月映(つくはえ)』(1914-15)があった。版画家・恩地孝四郎(1891-1955)らによる、詩と版画の同人誌である。正面には「百年の編み手たち」のタイトル、そして中央には石井柏亭の木版画、《木場》(1914)。東京都現代美術館のリニューアル・オープン記念展は「編集」をキーワードに、収蔵する「作品と資料」を核として、現在までの美術家たちの活動を再考することを謳っており、『月映』はこの企図を端的に表わすものとなっている
。実際、全14章のうち1章「はじまりとしての1914年」から4章「戦中と戦後」までの3階展示室ほぼすべてで、出品作品にまつわる当時の展覧会ポスター、出品目録、案内チラシ、作家のスケッチブック、日記、写真など、同館美術図書室が所蔵する資料が数多展示されていた 。美術館の展覧会で、作品とともに資料が出品されるのを、よく目にするようになった。これには資料の紹介のみならず、これを通じて作家や作品についてより多くを知ってもらうため、もしくは受贈の報告とお披露目に、さらには調査の証左としてなど、それぞれに目的があるだろう。ここでは資料を扱う者の視点から、近年開催された四つの展覧会をもとに、作品と資料の展示について考えてみたい。
作家の試行錯誤の痕跡を伝える
「霧の抵抗 中谷芙二子」展(水戸芸術館、2018)は、中谷の代名詞とも言える「霧の彫刻」を新作2点を含めて紹介するほか、ビデオ作品の制作、ビデオギャラリーSCANの運営など、その多彩な活動に通底する、抵抗と共生の思想を読み解こうとする、充実した展観であった。
「霧の彫刻」は、発表される場所の環境調査や気象観測、霧の流れをシミュレーションする風洞実験、霧をいつ、どのように発生させるかを可視化したスコアの作成など、さまざまな過程を経て制作されるため、ひとつの作品が実現するまでに多くの資料が生成される。本展はこれまでの作品にまつわる膨大な資料のなかから、中谷がE.A.T.のメンバーとして「霧の彫刻」を初めて発表した、大阪万博ペプシ館(1970)に焦点を定め展示していた点で出色であった
。水だけを用いた人工の霧を発生させようと協働した、科学者たちとの書簡やメモ。噴霧装置の開発で、ミー社と行なった実験の様子を捉えた写真や図面。自動制御噴霧プログラムのために作成した図表など、十数点に厳選し並べられた資料をたどることで、中谷が試行錯誤しながら「霧の彫刻」を実現した様子が、実によくわかる。企画者の山峰潤也は、展覧会という空間体験の中で資料を展示することの難しさから、資料自体のおもしろさを引き出す工夫に苦慮したという。唯一、出品資料を記したリストがなかったことが惜しまれる。
また「霧の彫刻」はその性質上、過去の作品は資料で知ることしかできない。マルチプロジェクションで展示された映像は、「霧の彫刻」の記録であるとともに、深緑の中を漂う霧のひんやりとした清々しさや、小雨の中を立ち込める霧の湿度までもが感じられる、美しい作品となっていた。
再制作、再展示の記録と資料で構成する
「日本美術サウンドアーカイヴ 2018年1月7日〜4月14日 資料展」(会場:東京藝術大学、2018)は、音を用いた美術作品の再制作と再展示、再演などの活動を行なう日本美術サウンドアーカイヴが、これまでに実施した1970年代に制作された作品の再展示の記録と、作家や作品を知る上で参考となる資料で構成されている。意表を突かれたのは、その展示だった。7作家の作品それぞれに机と椅子で設えられた展示台があり、その上には再展示の記録が、ポストカードほどの写真1枚で示されている。脇にあるオーディオ機器からは作品の音声が流れ、資料が背を立てて並べられている。観覧者は自分の見たい資料を自由に手に取り、この展示台で閲覧できる。机上に解説パネルがあることから、これが記録と資料から成る展覧会であることが見て取れる。
資料の中には渡辺哲也『Fixed eyes』(1974)のように、古びた私家版などもあり、関係者から借用したものとうかがえる。複写資料のファイルもあったが、整然と読みやすく綴られていた。これらがまるで「閲覧せよ」と誘うかのようで、素通りできずに、すっかり読み耽ってしまった。短期間かつ小規模ゆえ実現した見せ方かもしれないが、資料を鑑賞でなく、閲覧させようとした点が興味深い。資料からは新たな知見が得られただけでなく、50年近く前に制作された作品を観聴きするだけでは捉えがたい、時代の雰囲気が伝わってきた。企画者の金子智太郎は本展について、「資料を投げ出していると言えるかもしれません」と語っている
。資料を開くことは、観る者を信頼してその解釈を委ね、複眼的な議論を担保することであるとも言える。アート・ブックを観る体験
ここで番外編として「美術への挑戦 1960's‐80's:秘蔵されていたアート・ブック」(うらわ美術館、2019)に触れたい。「本をめぐるアート」を収集の柱とする同館のコレクションから、549タイトル(!)のアート・ブックを緻密な分析によって分類、これを補助線としつつ、アート・ブックの新たな見取り図を描こうとする、意欲的な企画であった。
通常、展覧会で本が展示されていても、これを手に取り観ることはできない。そこでその内容を複写しパネル化する、撮影してモニタで展示するなど、これまでも各所で工夫が凝らされていた。これらは内容を知る意味では過不足のない反面、紙芝居を見るようでもあり、紙を束ねた冊子というメディアの特性を考えると、やや違和感がなかったわけでもない。
本展はエドワード・ルシェ『9のプールと壊れたグラス』(1968)やディーター・ロート『作品集 第20巻「本とグラフィック(パート1)」』(1972)などの6点が、映像でも展示された。白手袋をはめた両手で本を持ち、ときにゆっくりと、ときにパラパラとページを繰っていく。もしくは何枚も重ねられたカバーを、1枚1枚広げていく様が、その手の本人の目線から撮られている。これは、自分の手元で本を扱うように観ることのできる、不思議な体験だった。企画者の滝口明子によれば構想に一番時間をかけたのが、この映像だったという。白手袋が鑑賞の妨げになるのでは、との懸念もあったようだが、ここでは本が作品であることを示すため、あえてこの方法を採ったという。
文学館の展覧会
「花田清輝展 転形期をいかに生きるか。」(神奈川近代文学館、2019)は、評論家、編集者、小説家であり、戦後の美術批評を語る上で欠かせない花田の多彩な活動を、同館のコレクションより“転形期”というテーマから紹介するものである。文学館の展覧会は、美術館にとって示唆に富むものと思われるため、ご紹介したい。
文学館の所蔵品は作家の原稿、書簡、図書や雑誌、自筆資料、切抜・印刷物、写真、遺品などの寄贈資料が大半である。展覧会の大きな目的は作家を知り、作品を読んでもらうことにあるが、会場では上記のような小さな資料のテキストを読ませることが本分となる。そのためメインの展示空間となる壁面展示ケースと可動式展示ケースを利用し、資料を立てて展示する、傾斜をつけた展示台に置くなど、垂直と水平を生かすことで、メリハリと見やすさが考え抜かれている。また文学では作品を一次資料、資料を二次資料とする考え方を持たないため、美術でしばしば見られる「スケッチブックは作品か資料か」といった問題は存在しない。
企画者の古川左映子は、花田には晦渋な文章が多いため、展示にゆとりを持たせ、詰め込み過ぎないことを意識したと言う。出品点数は200点強だが、ほとんどすべてに見やすく簡潔な解説キャプションが付されているのが、ありがたい。美術の文脈では、前衛芸術運動の旗手とされる花田だが、粛々と進む展示の中、埴谷雄高宛のハガキで、自分の思想が世の女性たちに理解されないことを嘆く様などを見るにつれ、花田をいま読み直す意義が、自ずと理解できるようになっていく
。文学館でよく見られる遺品の展示はなかったが、安易な自分語りを良しとしなかった花田には、それも相応しく思えた。なお花田の資料は現在整理中とのことだが、仮データの状態ながらオンライン蔵書目録システム(OPAC)でアイテムごとの検索ができ、目的に応じ手続きを取れば閲覧室で現物の閲覧もできる。整理中ゆえ、稀に年代などに誤りがある場合もあるが、公開することで利用者から情報が寄せられ、これを整理に生かすことができるのだという 。
開かれた資料──その展示としての可能性
こうして見ると、作品の展示に多様な手法があるように、資料に対してもまた展示の手法があることに気づかされる。そして資料もまた物質であるという、当然のことに思い至る。これは、作品と資料が同等である、ということとは少し違う。上述の展覧会は、どれも特段変わったアプローチをせずとも、資料に語らせようとすることそのものが、資料で語る作法として表われている。資料の展示の可能性はまだ、未知数である。資料に触発、喚起され、あわよくば、まだ見ぬ記憶や経験を招喚するような展覧会があるのなら、いつか観てみたい。
近年、アーカイブズを重視する動向の中で、その価値ばかりを強調する言説や、手段と目的を混同した議論には、どこか釈然としないものがあった。調査・研究における資料の重要性は自明だが、美術館でこれを収集・整理・保存・公開することの意義は、それだけではない。見つめるべきは資料に潜在し、時代とともに変わりゆく、その多義性ではないだろうか。資料は一度開かれれば、それは想像をはるかに超えてさまざまに受容されていく。そして展覧会ではその現場に、日々立ち会うことができる。逆説めくが、これを作品に当てはめてみれば、すぐにわかる。資料はもはや、学芸員や研究者たちのためのものではない。そう、それは作品がそうであるように。
百年の編み手たち─流動する日本の近現代美術─
会期:2019年3月29日(金)〜6月16日(日)
会場:東京都現代美術館
東京都江東区三好4-1-1
霧の抵抗 中谷芙二子
会期:2018年10月27日(土)〜2019年1月20日(日)
会場:水戸芸術館 現代美術ギャラリー、広場
茨城県水戸市五軒町1-6-8
日本美術サウンドアーカイヴ 2018年1月7日〜4月14日 資料展
会期:2018年6月25日(月)〜29日(金)
会場:東京藝術大学上野キャンパス大学会館 2F 展示室
東京都台東区上野公園12-8
美術への挑戦 1960's-80's:秘蔵されていたアート・ブック
会期:2018年11月17日(土)〜2019年1月14日(月)
会場:うらわ美術館
埼玉県さいたま市浦和区仲町2-5-1 浦和センチュリーシティ3F
花田清輝展 転形期をいかに生きるか。
会期:2019年1月26日(土)〜3月10日(日)
会場:神奈川近代文学館
神奈川県横浜市中区山手町110