2020年06月01日号
次回6月15日更新予定

フォーカス

よりよく生きるための選択──孤立から救済する技術

青木彬(インディペンデント・キュレーター)

2020年04月01日号

日本型アートプロジェクトの盛行やソーシャリー・エンゲイジド・アートの潮流とさまざまな共同体の実践を比較しながら、「生きること」と「アート」の繋がりを考えようと、筆者は以前「アートプロジェクトにおける臨床的価値とはなにか」という試論を寄稿した。こうした関心を下敷きに、本稿では「当事者研究」で知られる「浦河べてるの家」★1にレジデンスしたアーガオ(Er Gao)のワークショップを具体例に、両者の関係をより深く考えていきたい。

臨床というスケール



千葉県流山市ひだクリニック内デイケア「るえか」でのアーガオのワークショップ [写真:越間有紀子]


実践はまた、すぐれて場所的、時間的なものである。われわれが各自、身を以てする実践は、真空のなかのような抽象的なところでおこなわれるのではなく、ある限定された場所において、限定された時間のなかでおこなわれるからである。(中村雄二郎 『臨床の知とは何か』★2

この原稿を執筆している現在、世界中で新型コロナウィルスの感染拡大防止のために、日夜さまざまな対策が打ち出されている。経済的な打撃があることは度々語られているが、人々との接触が困難な状況それ自体が私たちに及ぼす心理的な作用も大きいように感じるのは私だけではないだろう。美術館は休館し、コンサートや演劇公演も中止になった。

東日本大震災の時にも多くの文化事業が自粛ムードに飲まれるなかで、表現に携わる人々はアートにできることは何かを自問し、手探りであるがさまざまなアクションが生まれていた。そこでは人々がひとつの場所に集まり、互いに助け合うコミュニティの構築が思考されたように思う。では現在はどうだろうか。人々は他者との物理的な隔たりのなかで、それでもなお他者を思いやることができるかが問われているように感じる。2018年にイギリスで孤独担当相が誕生したことは記憶に新しいが、今もなおさまざまな局面で孤立から人々を救済する技術が必要とされていることがわかるだろう★3

私は前述の「アートプロジェクトにおける臨床的価値とはなにか」のなかで「臨床的価値」という言葉を使った。これは、自分自身がアートとの関わりによって心理的に救われた個人的な経験と、そうした主観だけでは語れないアートの歴史のダイナミズムの間で作品を語ることの複雑さについて考えたことがきっかけになっている。

冒頭に引用した哲学者の中村雄二郎は、客観的な合理性を追求しようとする科学的な知に対して、個々の現実に立脚した「臨床の知」の重要性を提唱した人物である★2。「臨床的価値」とは作品と個々人の関係、そしてそれに対する批評においてこの「臨床」というスケールを導入してみることの試論であった。

ここではさらに「臨床」の具体的な体験として、広州出身のダンサーであるアーガオが、北海道浦河町にあるべてるの家で実施した二つのワークショップをレポートしながら考察を深めたい。

当事者研究

アーガオは、NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]が主催するアーティスト・イン・レジデンスプログラムの一環で招聘され、べてるの家★3に約2週間滞在していた。べてるの家は、1984年に設立された精神障害等を持った当事者達の活動拠点で、ここで行なわれる特徴的なものが「当事者研究」だ。当事者研究とは精神障害を抱えた本人が、困難に感じている状況について“研究”をするというもので、これは一般的な“治療”とは大きく異なり、当事者自身の現実を肯定し、ユーモアを持ってその状況と付き合う技術を模索するという、従来の精神医療に対しては非常に批評的な一面も持っているものでもある。例えば精神障害によって聴こえてくる幻聴に「幻聴さん」という名前を付け、対話する相手として尊重することで、幻聴が改善するなどの実践が行なわれてきた。対話を重視する姿勢は「三度の飯よりミーティング」というべてるの家の合言葉からも伝わってくる。

今回のレジデンスプログラムで招聘されたアーガオも、これまでさまざまなコミュニティに関わり創作を行なってきた経験や、身体を通じて言語以外のコミュニケーションに長けている点で、べてるの家が培ってきた対話の技術と通じるところがあったのだろう。



アーガオによるダンス・ワークショップ「How are you Dance?」の様子。浦河べてるの家のメンバーとスタッフ、ひがし町診療所のメンバーが参加した。中央がアーガオ。(2020年2月5日、浦河町総合文化会館) [写真:泉望]


日常的な所作からの出発

べてるの家での滞在を終えたアーガオが東京で行なった即興ダンス・ワークショップ「日々を踊ろう|消えゆくものと、現れる記憶」には、子供から大人まで幅広い年齢層の人々約20名に加え、レジデンスプログラム中にアーガオが出会った「新人Hソケリッサ!」★4のアオキ裕キやメンバーらも参加した。



ワークショップ会場はSHIBUYA PARCO 9F にオープンするクリエイティブスタジオGAKU [写真:越間有紀子]


べてるの家での経験はワークショップ冒頭の参加者の自己紹介から活かされていた。アーガオは参加者へ名前とあわせて「今日の気分」を伝えるようにと投げかけたのだ。「今日の気分」を伝えるという手法は、べてるの家の集まりで投げかけられる質問で、自らの状態に耳を傾け弱さを開示していくひとつのきっかけである。一見些細に見える質問だが、精神障害は治療しなくてはいけないというある種の強迫観念を棚上げし、ありのままの自分自身でいることを自他共に肯定していく場を作り出している。べてるの家流に言えば「安心して絶望できる」場づくりである★5

自己紹介を終えると、簡単なストレッチからスタートした。最初はその場で、徐々にうろうろ歩きまわりながらストレッチし、目があった人と自己紹介をする。しばらくするとアーガオは参加者へ「挨拶をした時に内気な部分はどこだった?」と尋ねた。参加者から「お尻」との回答があると「今度はお尻で挨拶しよう」と言い、お尻をぶつけて挨拶をする動作を見せる。



お尻で挨拶するアーガオと参加者 [写真:越間有紀子]

しばらく続けていると、アーガオは参加者のひとりの子供の動きからインスピレーションを得て、今後は2人1組で徐々に人数を増やしながら、体を接触させた状態でジャンプと移動を繰り返すワークへと発展。



徐々に人数が増えていく [写真:越間有紀子]


ワークショップは日常的で簡単な動作を出発点に即興的なアイディアを織り交ぜながら進行していく。

ワークショップ中盤、参加者から事前に集めていた「思い出の写真」をスライドで見ながら、幼少期にプレゼントされたうさぎの人形、海外での小学校時代の経験、職場のお気に入りのスポットなど、参加者自身がそれぞれの写真についての思い出を発表した。その後は気になった思い出ごとにグループに分かれて感想を話し合ったあと、そこで集まったエピソードを動きに置き換えてグループごとに即興的なダンスを披露。





それぞれの思い出から創作したダンスを発表する [写真:越間有紀子]


ワークショップの最後は参加者とのディスカッションの時間が設けられた。そこでアーガオはべてるの家での滞在について、「精神疾患は特別なことじゃないと感じた。誰にでも怖いものはあるし、おかしいのはこの世界の方なのかもしれない」と感想を述べていたことが印象的だった。

今回のワークショップでは、現代アートが好きな人、ダンサー、べてるの家に興味を持っていた人など、それぞれの関心から集まった人々が、短い時間のなかでそれぞれの思い出や動作をシェアし、その連鎖がいつしか即興的なダンスを生み出していた。



「るえか」でのワークショップで、参加者に「べてるの家」での滞在記録を見せて話をするアーガオ [写真:越間有紀子]


続いてワークショップを行なったのは千葉県流山市にあるひだクリニックが運営するデイケア「るえか」だ。「るえか」では就労支援や認知行動療法だけでなく、べてるの家が行なっている当事者研究にも取り組んでおり、この日は同施設に通う人々や職員、アオキ裕キら約30名が参加した。

「るえか」でのワークショップも、シンプルなストレッチから始まった。その後、ストレッチはマッサージをするように自分の体を触る動作に自然と移行していき、今度はペアになってお互いをマッサージする動作から即興的なダンスへと発展。



マッサージから徐々にお互いの体に触れる即興的なダンスへと発展 [写真:越間有紀子]


参加者たちの緊張もほぐれると、アーガオはべてるの家での節分の思い出について話を始めた。そこから参加者へ「ひな祭りにはどんな歌がありますか?」「どんな食べ物を食べるの?」と、ひな祭りについての質問をいくつか投げかけながら、ひな祭りの踊りをつくるワークを提案。参加者はグループに分かれて、「うれしいひなまつり」に合う振り付けを4〜5つの動きからつくることになった。



グループごとさまざまな振り付けを披露した [写真:越間有紀子]


すべてのグループの発表が終わると、アーガオはこれまでに出てきた動きを抽出して組み合わせながらひな祭りの踊りをつくっていった。参加者は輪になってそのアーガオの動きを真似していく。それは観客に対して発表されるダンス作品とは違い、その場にいる人々の信頼関係の中で連鎖するコミュニケーションのようにも感じた。

接触と記憶

アーガオの二つのワークショップをとおして見えてきたのは、「当事者」とは私自身のことでもあるということだ。そして、参加者は集まった人々との身体的な経験を共有するなかで、他者との違いを認めながらも、私自身もまた誰かの他者であるという経験を得たのではないだろうか。アーガオが投げかけた「おかしいのはこの世界かもしれない」という言葉が示すように、実は私たちが常識だと思い込んでいることでも、今回のようなワークショップをきっかけに柔軟に変容する可能性があるはずだ。


それに気付かせてくれたアーガオのワークショップには「接触」と「記憶」というキーワードがあった。図らずも新型コロナウィルスによって私たちは「接触」から遠ざかり、他者との身体的な距離感が増すばかりだ。しかしながら、べてるの家や「るえか」の活動に関わるNPO法人BASE代表理事の向谷地宣明氏は今回のワークショップに参加し、「普段は利用者同士で触れ合うことはないけど、ダンスのワークショップだと自然とそれができる。人と触れ合うことは治療的な効果もあるし、ダンスだとそれぞれの個性もうまく溶け込みやすくて面白い」と述べた。また、この「接触」ということについてアーガオに尋ねると、身体的な接触は受け取り方の違いで癒しにも暴力にもなってしまう二面性について触れ、べてるの家で行なったワークショップでは、お互いの身体を解きほぐすボディタッチを意識していたと言う。

今回紹介した二つのワークショップでは、どちらも参加者の「記憶」を共有するような対話の時間が作られていた。アーガオは「記憶はさまざまな感情を伴うので、話せば話すほどネガティヴになってしまう傾向もあるが、ワークショップという場で他者と記憶を共有することで、また違った捉え方を見つけられることがある」と話してくれた。

こうした「接触」や「記憶」を意識する背景には、政府によって編集された歴史以外を知ることが難しかった自身の経験から取り組むオーラルヒストリーを集める作品や、家族や異性とのスキンシップの経験があったからだ。


筆者は2019年11月に右足を大腿骨で切断する手術を受けた。切断によって興味深かったのは、欠損して無いはずの四肢に痛みを感じる幻肢痛である。幻肢の感覚は切断前の足の状態に依存することや、義足での歩行のリハビリに幻肢を活かせることを発見したのは、まさにべてるの家の当事者研究の手法を用いてのことだった。欠損しても感じる「無いはずの存在」★6は、私自身にも「接触」と「記憶」について考えさせるきっかけでもあり、また誰しもがそれぞれの当事者性を持っていることを教えてくれた。

自分自身や身近な人との接触によって生じる具体的な時間と空間を有した体験はいつまでも肉体に残ること。歴史化されない個々人の記憶の折り重なりもまた、アーガオがべてるの人々の体のこわばりを感じたように、筆者が幻肢痛を感じるように、その人の肉体へ確かな存在として刻まれていること。両者は場所的、時間的なものとして、経験者の思考や感性を変容させる実践となっている。

アートは誰にとって切実な選択肢になり得るか

思考と行為が一体となった芸術的な経験を最も完全な経験と考えたのは教育学者のジョン・デューイである★7。デューイはルドルフ・シュタイナーと並び教育において、経験から学ぶ姿勢を重要視していた。当事者研究についてはデューイの理論と比較して言及されることもあるが、主体的な学習は教育者への制度批判を含み、治療概念を更新する当事者研究は治療モデルへ疑問を投げかける★8。アーガオはワークショップについて、「観客に対する舞台表現やダイエットのような限定的な目的のためにではなく、大衆が自分たちの抱えるさまざまな感情と向き合うものとして機能する場になる」とその可能性を語っていた。

べてるの家はいわば精神医療においてオルタナティヴな方法を実践する場である。当事者研究などは細分化された医療、福祉の制度のなかで目指される“治療”ではなく、「よりよく生きるための選択」について考える試みだと言えないだろうか。近代的な価値観のなかでは未分化であろうと、それは当事者にとって本当に切実な選択である。

アートにおいてそのようなオルタナティヴな実践はどう解釈できるだろうか。例えばソーシャリー・エンゲイジド・アートの潮流や2000年代以降に盛行するアートプロジェクトにおいても、細分化された制度のなかで作品の評価を行なうことが難しくなっている。もちろん社会的な関与によってその作品に携わる人々が心理的に救われるからといって、それだけが価値とされるわけではなく、やはり表現としてアートにならざるを得なかった欲望が批評され、議論されることは必要だ。しかし、アーガオのようにワークショップという手法によって歴史化されない大衆の感情に寄り添うことが、参加者にとって主体的で重要な経験となるのと同じように、その経験はアーガオ自身の表現を磨く糧として蓄積されるに違いない。この過程を共有する人が限りなく少なく、些細な出来事と見做されたとしても、そこには確かに限定された場所と時間のなかで行なわれる具体的な実践があった。この時に臨床というスケール感こそ、アーティストや参加者を含めた作品の当事者の声を聞くことができるのではないか。

今回のワークショップでは、精神障害のある人々にとっての治療的な意図があったわけでもなければ、アーガオが参加者を演出したわけでもなかった。そこにはただひとつの実践があり、それはアート概念の拡張のために医療を横断したというよりも、細分化されたジャンルの手前に横たわる「よりよく生きるための選択」として「アート」が選ばれただけとも言える。しかし、アートが社会のなかで本当に自律するためには、例えば「よりよく生きたい」といった切実さに対して、軽やかに「アート」という選択が提示できるかが重要ではないか。いまでは誰しもが孤立の当事者になり得る状況である。そんな時、アートは孤立からの救済の技術にもなるだろう。

★1──1984年に、北海道浦河郡浦河町に設立された精神障害等をかかえた当事者による当事者のための地域活動拠点。生活、職場、ケアの3つの共同体からなり、100名以上のメンバーが地域で暮らしている。https://bethel-net.jp/
★2──中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波新書、1992
★3──「英国、孤独担当大臣を新設 900万人以上孤独、対策へ」 https://www.asahi.com/articles/ASL1L12BGL1KUHBI04N.html(朝日新聞 2018年1月18日付)
★4──2005年、ダンサーであるアオキ裕キが路上生活経験者とスタートしたダンスグループ。彼らがもつ個人の身体的な記憶と肉体表現をテーマにしている。https://sokerissa.net/
★5──向谷地生良『安心して絶望できる人生』(生活人新書、2006)
★6──ブログ「無いものの存在」は筆者である青木彬が右足の切断について綴るエッセイ。https://note.com/akira1989/
★7──ジョン・デューイ著 河村望訳『デューイ=ミード著作集12 経験としての芸術』(人間の科学新社、2003)
★8──石原孝二編著『当事者研究の研究』(医学書院、2013)

アーガオによる即興のダンス・ワークショップ「日々を踊ろう|消えゆくものと、現れる記憶」

開催日:2020年2月24日(月)13:00〜16:00
会場:SHIBUYA PARCO 9F クリエイティブスタジオ GAKU(東京都渋谷区宇田川町 15-1)
主催:NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]
協力:時代美術館、社会福祉法人 浦河べてるの家

アーガオによるダンス・ワークショップ

開催日:2020年2月26日(水)14:00〜15:30
会場:ひだクリニック内デイケア「るえか」(千葉県流山市南流山1-14-7)
主催:NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]
協力:医療法人社団 宙麦会 ひだクリニック


プログラム概要

AIT(東京)ー 時代美術館(中国・広州)ー べてるの家(北海道・浦河)による協働レジデンスプログラム
「アート、精神、コミュニティ in 東京 / 北海道」
主催:NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]
協力:時代美術館(中国、広州)、社会福祉法人 浦河べてるの家(北海道)
助成:平成31年度文化庁 アーティスト・イン・レジデンス活動支援事業
アーガオのプロフィール:http://www.a-i-t.net/ja/residency/2020/01/ergao.php

  • よりよく生きるための選択──孤立から救済する技術

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