2020年08月01日号
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フォーカス

【ヤンゴン】開国のあとで──揺れ動くミャンマー現代美術家たち

清恵子(著作家、キュレーター、メディア・アクティヴィスト)

2020年04月15日号

中国とインドの中間に位置し、経済成長著しいタイやベトナムに隣接するミャンマー。イギリスからの独立、第二次大戦中の占領時代の歴史のなかで日本とは深い関係があり、現在は日本企業も多く進出している。また、最近はロヒンギャ難民問題が注目されているが、現代アートシーンについて日本で語られる機会は少ない。チェコでの活動のあと、現在はバンコク在住の著作家で、ミャンマーでの映画教育や映画祭設立などのプロジェクトに携わる清恵子氏にご寄稿いただいた。(artscape編集部)

活発化する諸外国の文化機関による活動

ミャンマーのヤンゴンで2月25日と26日、大きなアートイベントが開かれた。ブリティッシュ・カウンシル(以下、BC)主催の「Arts for Change for Art」と題されたこのイベントには、初日だけで、アーティスト、著述家、NGO、メディア、少数民族団体など140人以上が参加した。



「Arts for Change for Art」でのシンポジウム風景 [筆者撮影]

ミャンマーでBCが芸術文化にテーマを絞ったイベントを主催するのは珍しく、軍事政権中は主に言語教育に専心していた。そのあいだ、外国機関として最も機動力を発揮していたのはアメリカン・センター(以下、AC)とアンスティチュ・フランセ(以下、IF)だった。ACは政治色が強かったこともあり、同館周辺では軍が目を光らせ、入館者の情報は記録にとられ、館内でも秘密警察が監視を続けていた。一方IFは、他の西洋企業が同国から手を引くなかでフランスのトタル石油が残ったことや、政治活動はやらず文化に徹するという同館の暗黙の方針により、軍の監視はそれほど厳しくなかった。こうした事情もあってより開放的な雰囲気が漂う同館は、長年にわたりミャンマーにおける自由の砦的な役割を担ってきた。筆者自身も映画ワークショップの場として利用させてもらったし、演劇やパフォーマンスの実践者からも好んで使われていた。

その後2012年前後の開国の兆しに伴い、より多くの外国文化機関がオープンした。2014年にはゲーテ・インスティトゥート(以下、GI)が開館し、同じ時期に日本の国際交流基金も活動を開始している。

ミャンマー文化省がGIに提供した建物は、シュエダゴン・パゴダにも近い一等地にあるコロニアル建築の邸宅だった。この国の現代史を反映するかのようなこの邸宅は、裕福な中華系一家によって1920年代に建てられたが、1942年に日本が侵攻すると一家は逃亡、その後アウンサンらが率いる抗日運動の秘密組織「反ファシスト人民自由連盟」の本部として使われた。1962年のクーデターで軍事政権下におかれたミャンマーでは、しばらくの間国立美術学校として使用されていた。その後1996年にヤンゴン郊外にミャンマー国立芸術文化大学(National University of Arts and Culture)が開校したのをきっかけに学校は廃校、それ以降2014年までは美術展会場として使用されていた。建物を提供されたGIは、莫大な資金を投じ、敷地全体をミャンマーの外国文化機関としては最先端の技術を備えた一大文化センターへと変貌させた。まさにドイツの威信をかけた文化宮殿といったところで、その意味を込め、建築遺産分野では「ゲーテ・ヴィラ」とも呼ばれる。

設備の優れたこのゲーテの施設が大人気となったことから影が薄くなったようなAIだが、2016年に仏緬友好55周年を記念してヤンゴン地域政府と共催で大規模な「ミンガラバー! フェスティバル」★1を開催。L’Homme Debout制作の巨大な人形がヤンゴンの街を練り歩いたり、少し前は軍の監視の最も厳しかった市庁舎のファサードをプロジェクションマッピングで変貌させるなど、「ヤンゴンの街を市民の手に取り戻す」をモットーに、一般市民を対象とした派手なプログラムを展開させ、大いに話題になった。



ミンガラバー! フェスティバルでのL’Homme Debout制作の人形パレード [筆者撮影]




「ミンガラバー! フェスティバル」での市庁舎のプロジェクションマッピング [筆者撮影]


一方日本も、毎回大入りの日本映画祭★2をはじめ、ワッタン映画祭★3における日本実験映画プログラム、アニメーションワークショップ、現代演劇ワークショップ、キュレーターワークショップ等数多くの企画や日緬初の共作映画『日本の娘』(ニープ監督、1935)のデジタル修復事業など、国際交流基金と文化庁の努力により短期間で英仏独にひけをとらない存在感を示すことに成功している。

コロニアル建築でのあらたな文化的出会い


BC主催の「Arts for Change for Art」は、こうした先進諸国の活躍を意識したイベントだと考えられる。会場として、ヤンゴンが誇る建築遺産のなかでも最大かつ最も貴重な建築物とされる元英領ビルマ総督府「セクレタリアート」を使った。アウンサン将軍が暗殺された場所としても知られ、軍政時代は長年、アウンサン将軍暗殺を偲ぶ年に一度の「殉教者の日」にしか一般公開されたことのなかった、幽霊宮殿のような一大建築物である。

このイベントで大英帝国が自らの領地に自らが建てた建物に戻ってきたという形になったが、実はここでも先手を打っていたのはGIだった。2017年にヴォルフガング・ライプを招いてサイト・スペシフィックのインスタレーション制作★4を依頼している。正式にはこれが「セクレタリアート」の再開イベントとなり、このときは、地元の人間すら滅多に立ち入ることのできない神聖な殉教の場を西洋の国に開放するのか、と物議を醸した。ライプはこの作家の代名詞ともいえる花粉をドイツから運んできたわけだが、より裕福な国から文化という名の花粉や種を運び、花を咲かせ実を結ばせることがいかに複雑で大変なことであるかは、どの外国機関も認識しているに違いない。



元英領ビルマ総督府「セクレタリアート」の外観 [Creative Commons Attribution-Share Alike 4.0 International]


そんななかでの貴重な成功例をひとつ挙げよう。開国よりずっと前の2002年に開催された、シンガポールのパフォーマンス・アーティストであるジェイ・コー(Jay Koh)が創設したiFIMA(international for Forum for InterMedia Art)という団体のイニシアチブで蘭プリンス・クラウス基金と国際交流基金が支援した「Collaboration, Networking, and Resource-Sharing」★5というイベントである。同国で初めて地元のアーティストと海外のアート関係者が現代美術を中心にタイトル通りの「コラボし、ネットワークし、共有すること」を目指したイベントで、筆者が最初にミャンマーに足を踏み入れたのもこれがきっかけだった。イベント期間中、会場は長い間鎖国状態だったミャンマーを訪れた海外の美術関係者に自分たちの作品を見てほしいという地元アーティストたちの熱気で溢れ返っていた。



「Collaboration, Networking, and Resource-Sharing」会場風景 [筆者撮影]


ポポ(Po Po)、アウンミン(Aung Myint)、エイコー(Aye Ko)、ニエンチャンスー(Nyein Chan Su/以下、NCS)、ガンゴー・ヴィレッジ・アート・グループ(Gangaw Village Art Group)、チャンエイ(Chan Aye)といったミャンマーの現代美術を代表するアーティストたちがインスタレーションやパフォーマンスを披露し、お返しに、主催者であるジェイ・コーをはじめ当時マレーシアでパフォーマンスを教えていたレイ・ランゲンバッハなど、外国からの参加パフォーマンスアーティストもパフォーマンスを行なった。



「Collaboration, Networking, and Resource-Sharing」会場風景 [筆者撮影]


ミャンマーにはNIPAF(日本国際パフォーマンスアートフェスティバル)がそれまでに何度か訪れていたため、NIPAF系の短く完結するタイプのパフォーマンスの影響も見られたが、教育も情報も交流も大変限られていたなかで、パフォーマンス・アートとは何か、インスタレーションとは何かといった根本的な問いに対する深い思索の過程を感じさせた作品もあった。たとえばチャンエイのパフォーマンスでは、瞑想や石といった「限られた状況や素材」を象徴する要素を最大限に活かし、そうした状況下におかれたアーティストの力を最大限に感じさせる瞬間が作り上げられた。そのほか当時名前を上げることすらタブーだったアウンサンスーチーを暗示させる作品なども見られ、まさに限定された時代と状況でしか成立しえない、濃厚な政治色を背景とした一期一会の芸術体験となった。

アーティスト・ラン・スペースがつくるシーン


ミャンマーには国立の芸術文化大学がヤンゴンマンダレーに1校づつと美術高校がヤンゴンに1校あるが、自国の伝統芸術の保存が教育目的とされているため、現代美術が教材に上ることは今でも滅多にない。したがって現代美術の作家たちは独自の仕組みを作ることで現代美術の浸透に尽くした。1970年代の終わりからヤンゴン大学の美術クラブとして立ち上がったガンゴー・ヴィレッジ・アート・グループや、現代美術の老師とされるアウンミンが運営するInya Gallery of Art、パフォーマンスアーティストのエイコーが立ち上げたニュー・ゼロ・アート・スペース、NCSが立ち上げたスタジオ・スクエアが代表として挙げられるが、仕組みとしては、芸術家を目指す個人がこれらのグループに属すると、教育からデビュー、そして生活や人生に至るまで、「芸術人生」の一生を面倒みてくれる。もちろん検閲対応の面倒もみてくれる(検閲の前は検閲官たちへの接待や説明に努力し、検閲で禁止になってしまったら、修正や他の機会での同作品の展示を検討してくれる)。だがこれらの多大な恩恵の代わりに、それなりの義理や忠義は期待される。作家とグループの関係は家族的な結び付きに近く、契約で結び付く西洋型の作家とギャラリーの関係ではない。展覧会を行なう場合も、その形式は基本的にグループの発表会であり、キュレーターがテーマに沿って作品を選ぶ西洋型の展覧会とは違う。実際にこの国には「キュレーター」という職業も長い間存在しなかった。


10年ほど前のことになるか、筆者はミャンマーのアーティストに対し「西洋型のキュレーター制度導入はこの国にとって良いことだと思うか」というミニアンケートを行なったことがある。その時は回答者の100%が即座に「思う」と答えたのにいささか驚いた。ただいずれにせよ、キュレーターの到来は不可避であり時間の問題だった。TS1のチーフキュレーターを務めたり、Myanm/artを立ち上げた米国出身のナタリー・ジョンストン(Nathalie Johnston)が2010年前後から活動を始めているし、2015年にはGIがシンガポールのキュレーターであるイオラ・レンジを招いて改装前のゲーテ・ヴィラで東南アジアの作家たちによるサイトスペシフィックの現代美術展を企画している。最近ではキュレーションされた国際展が開かれる数もぼちぼち増えてきたし、国際交流基金も東南アジアのキュレーター育成プログラムに熱心だし★6、西洋でキュレーター教育を受け、自らをキュレーターと呼ぶ人も出てきた。

ソ連であれ中国であれ、閉ざされていた国が開国した途端に西洋のアート関係者が堰を切ったようになだれ込んでくるのはアート業界の運命のようなものだ。ミャンマーも例外ではなかった。そして果たしてこれが、これまでさんざん努力してミャンマー型のやり方を作り上げた作家や教育者たちにどう影響するのか、結論を出すにはまだ早い。

激変する社会のなかでのアーティストの戸惑い


「Arts for Change for Art」の開幕前夜に、ミャンマーのアート界を激震が走った。NCSの死亡のニュースが伝えられたのだ。47歳という若さだった。ミャンマーの美術界で知らない人はいない人気者で、絵画からパフォーマンス、インスタレーション、グラフィティ、映画・ビデオアート作品まで何にでも挑戦し、スタジオ・スクエアを立ち上げてからは若手の発掘や「家族」の面倒見にも熱心な作家だったが、ここ数年はうつ状態になることが多く、この死がほぼ自殺だったことは関係者のすべてにわかっていた。イベント2日目は葬式と重なっていたため、参加者の3分の1が欠席となった。

筆者は国立ヤンゴン総合病院で本人が亡くなる場に立ち会ったが、悲しみとともに、病院の状態にも驚愕していた。「セクレタリアート」と匹敵するほどのコロニアル建築の傑作だが、一旦中に入ると、施設そのものも1世紀前ではないかと思われる状態で、中を鳩やカラスが自由に飛び交い、逆に病人の家族は床に座るか外にキャンプするしか場所がない。こうして、ミャンマーの誰よりも芸術の近代化に熱心だった作家は、近代化に取り残されたような病院の中で亡くなった。

NCSと最後に会ったのは、筆者が昨年チェコ大使館に依頼され、GIと共催した「フランツ・カフカ祭」★7のときだった。カフカの影響を大きく受けたというNCSは、イベントのことを知ると嬉々としてこのために特別に作ったというインスタレーションを持ってきてくれた。ゲーテ・ヴィラでNCSは、この建物の以前のテナントだった国立美術学校で自分が美術を学んだ頃の話をしてくれた。建物の守護神を祭るミャンマーの祠をドイツが壊さなかったのは面白いよね、やっぱりドイツ人も亡霊や祟りが怖いのかな、と冗談めかして話していた。

うつ状態を続けていた頃、「誰も自分のことを理解してくれない」とよくつぶやいていたという。果たして、あっという間に情報や機会や変化がなだれ込み混沌とした今のミャンマーで、この現代作家は自分の何を、どの部分を理解してほしかったのだろう。変化のなかでミャンマーのあり方を維持しようとする自分? 常に新しいものに挑戦する自分? ひょっとしたら、本人自らそれが分からなかったのかもしれない。それに果たして、この状態にあって、どの作家が自分の立場や位置や役割を把握しているというのか。その苦悩はNCSだけではないはずだ。


★1──Mingalarbar Festival。2016年12月2日〜4日に開催。
★2──国際交流基金が構想する、ASEAN諸国およびオーストラリア、中国、ロシア、インドの10カ国での日本映画の浸透とネットワーク構築のための総合プラットフォーム。2017年には文化庁主催の日本映画祭もヤンゴンで開催された。https://www.japanesefilmfest.org/
★3──Wathann Film Festival。2011年から毎年雨期の9月にヤンゴンで開催されている映画祭。ミャンマー映画の映画祭としては同国初の映画祭で、ドラマ、ドキュメンタリー、実験映画などさまざまな映画ジャンルを幅広く紹介することを目指す。自主映画の新人登竜門としても確立。http://www.wathannfilmfestival.com/
★4──ヴォルフガング・ライプ「Where the Land and Water End」展は2017年1月14日から2月4日まで開催。
★5──「Collaboration, Networking and Resource-Sharing」プロジェクトは2002年6月22日〜27日まで、ヤンゴンのBeikthano Galleryで開催された。https://rhizome.org/community/3417/
★6──「キュレーター・ワークショップ in 東南アジア」(2014)https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/exhibit/exchange/2014/06-01.html、「Condition Report」(2017)https://jfac.jp/culture/projects/condition-report/など。
★7──Franz Kafka Festival in Yangonは2019年6月19日〜23日に開催。映画上映、展覧会、朗読会、VRを使ったパフォーマンスなどが行なわれた。https://www.mzv.cz/yangon/en/news_and_announcements/franz_kafka_festival_in_yangon.html


Arts for Change for Art

会期:2020年2月25日(土)〜26日(日)
会場:The Secretariat Yangon(Thein Phyu Road, Middle Block, Yangon)
主催:ブリティッシュ・カウンシル・ミャンマー

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