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東日本大震災の記憶の伝承──被傷性の展示を行なうこと

竹沢尚一郎(国立民族学博物館名誉教授)

2021年08月01日号

今年が東日本大震災発生から10年という節目であること、また「復興五輪」の呼び声で招致された東京2020オリンピック競技大会開催に絡んでか、昨年から今年にかけて東北各地にいくつか大型の復興祈念・伝承の施設がオープンしている。被災と復興の記憶を伝承するミュージアムはどのように可能なのか、『ミュージアムと負の記憶──戦争・公害・疾病・災害:人類の負の記憶をどう展示するか』(東信堂、2015)の編著者、竹沢尚一郎氏にご寄稿いただいた。(artscape編集部)

傷ついた人びと


大槌町中心部は被災翌日も火災が続き、自衛隊の救援が入れなかった[撮影:小川芳春]


2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生した時、私は京都の自宅にいた。長い揺れが数分つづき、底知れぬ不安を感じたことをおぼえている。しばらくすると、津波がまちを破壊していく映像がテレビでくり返し放映された。おそらく軽度のトラウマを負ったのだろう。その日以来何も手につかなくなり、テレビや新聞をただ眺める日々がつづいていた。

これでは何もできないので、2週間ほどして私と妻は被災地にボランティアに行くことを決めた。4月に入ると被災地でもガソリンの補給が可能になったというので、車にテントと寝袋、着替えと食料を積み、娘も加えて3人で出発した。どこへ行くか。ボランティアの少ない岩手県に行くことを決めたが、岩手県でボランティアを受け入れていたのは大槌町だけだった。

大槌町の社会福祉協議会に向かうと、まちは津波と火災で破壊されて、残っている建物は1軒もなかった。ネットで調べた所在地に行くと、社会福祉協議会は体育館の横に張られたテントであった。中にはホワイトボードと長机と電話機が1台置かれ、それがすべてであった。ボランティアに来た旨を伝えると、津波によって破壊された家々から流出した写真や書類の整理と清掃を依頼された。その仕事をしながら、合間に食料を配給するNPO職員について他の避難所を訪れるなどして2週間を過ごしたのだった。



被災前の大槌町町方地区[撮影:小川芳春]



被災前の大槌町町方地区[撮影:小川芳春]


いったん関西に戻り、5月の末に1カ月の予定で大槌町に行った。ちょうどその頃、町の若手有志が「大槌復興まちづくり住民会議」を立ち上げ、全町で集会を計画していた。最初の集会に出席して自己紹介し、彼らの作業を手伝うことにした。私は他所でまちづくりの手伝いをした経験があったので積極的に参加した。集会の開催を告げるビラを作って避難所や家々を回り、集会時にはすべての発言を記録した。熱心にしゃべる人がいればメモをして、あとで話を聞きに行った。経験されたことを聞かせて下さいというと、心のなかにたまっていたものがあったのか、多くの人が堰を切ったように話してくれた。

話を聞いた方のなかには身内を亡くした方が何人もいたが、もっとも痛ましいのは子を亡くした方々だった。ある女性は、親元に留まるために大槌町役場に勤めていた娘さんを津波で亡くしていた。「なんで私だけ助かったんだろうね。私が代わりに逝ったらよかったのに」。会うたびにそう口にしていた彼女の顔は今でも覚えている。別の方は、隣の釜石市が避難場所に指定していた施設で津波に巻き込まれ、つないでいた2人の子どもの一方の手が離れて行方不明になっていた。半狂乱になっていた彼女は、いつか避難所から姿を消していた。

大槌町の震災前の人口は15,277、うち死者行方不明者が1,281(2012年6月)であり、ほぼすべての町民が家族や親せき、友人を亡くしていた。私が震災後のこの町で出会ったのは、傷ついた人びと、傷つきやすい状態(vulnerable)におかれた人びとであった。そのような人びとに私は調査者として接することはできなかった。まちづくりの経験と知識をもつ支援者として、そして自己を傷つきやすい状態に置くことで他者の話を聞く経験を積んだ人類学者として、彼らに関わっていった。

人類学者のフィールドワークは、他の学問分野の調査のように質問票を携えて行なうわけではない。人類学者は、比喩的にいえば素手で、剥き出しの状態で他者に出会い、話を聞き、それによって他者を理解しようとするのである。剥き出しの状態で他者に接することをフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは「被傷性」と呼んだが(翻訳では「可傷性」となっているが、これでは意味が通じない。加害と被害はあるが、可害という言葉はない)、ある人類学者の仕事が良いか否かは、すべてこの他者との出会いの質に拠っている。他者に心を開いてもらおうと思ったら、まずこちらから自己をさらけ出さなくてはならないのであり、そうしてはじめて他者を理解することが可能になるのである。

破壊された役場


津波で破壊された大槌町役場[撮影:筆者]


地震の直後にくり返しまちを襲った津波は大槌町の多くの人びとの命を奪い、心に深い傷を残していたが、その象徴といえるのが破壊された町役場であった。海のすぐ近くに建てられていた役場は、2階建ての建物の屋上まで津波が達し、146人の職員のうち、町長と全課長職員を含む40名の命を奪っていた。無残なかたちで残るその建物を保存するか、あるいは解体するか。その問題は町を二つに割る争点になっていた。

2011年8月に選ばれた新町長は役場の保存を訴えたが、町議員の大半は解体を望んでいた。町役場が2012年10月におこなったアンケートによると、40人の遺族のうち保存が38%、解体が62%であり、現役の役場職員へのアンケートでは保存が21%、解体が79%であった。私が個人的に話を聞いた町の人びとの反応もほぼおなじであり、保存に賛成するのはおよそ4人に1人の割合であった。「見るのが嫌だ」「見るとつらくなる」「これを観光資源にはしてほしくない」、そうした否定的な意見が多かったのである。

サバイバーズ・ギルトという言葉がある。2001年のニューヨーク世界貿易センタービルの同時多発テロ事件や、2005年の福知山線脱線事故のときに話題になった言葉であり、生存者が自分の仲間の死に対して何もできなかったことを悔悟し、深い無力感に悩まされる状態のことである。おそらく大槌町の人びとはこの感情にさいなまされていたのであろう。そうした彼らに向かって、役場を保存しましょうなどと言うことはできなかった。彼らに受け入れられる言葉を見つけなくてはならないと思ったのである。

町民にとっての痛ましさの象徴である役場を残すには、何らかの配慮がなくてはならない。さもなければ、それを見る町民の多くは心の傷を新たにし、必要のないトラウマを新たに背負うことになるだろう。そう考えたので私は町長や教育委員会の課長に掛け合って、トラウマを生じさせないような枠組み(この場合は展示を想定していた)を併設することの必要性を強調した。一方、町の側でも、死者を悼み、津波の経験を将来に伝える施設の必要性を感じていた。図書館を含む複合施設が破壊された役場のすぐ脇に建設されることになり、その一角に展示場が作られることになった。私もその立案に協力したが、それに加えて、国の博物館に勤務する人間として展示の制作に尽力したいと思ったのである。

展示をどう作るか

展示の構想を練るにあたっていくつか考えたことがあった。第1点は、震災の展示にはしないことである。もし震災の被害を強調したなら、展示としてのインパクトは強くなるだろうが、それが町民に受け入れられるとは思えなかった。そのような展示は、人びとが忘れたいと願っている記憶を想起させ、トラウマを生じさせる危険があるだろうからである。

私が着想したのは、震災前から震災後にいたる人びとの暮らしを一続きのものとして再現することであった。津波は人びとの暮らしを破壊したが、彼らは破壊に任せるのではなく、いくつかの地区では自主的に立ち上がり、被災者同士が助け合うことでそれに立ち向かっていた。そのことを伝えることができたなら、町の人びとにも勇気と将来に向かう気持ちを奮い起こすことができるのではないか。しかも、被災後に助け合いが生じるためには、被災の前に横のつながりができていたはずである。私が展示でつくろうとしたのは、震災の経験を突出させるのではなく、それを含めた大槌町の人びとの経験と生き様を一続きのかたちで示すことであり、それを私が提示し、町の人たちと協議しながらつくり直していくことを考えたのである。



戦前の祭りの風景[写真提供:臼澤正男]



子どもたちの手踊り(被災前)[撮影:臼澤正男]


しかし、そのような構想を実現するには問題があることがすぐにわかった。市街地のほぼ全域が破壊された大槌町には、過去を示す手がかりとなるモノが失われていたし、津波前の町の姿をあらわす写真も存在しなかった。そのため私は津波前の町を写した写真を集め、残された資料を再点検することから始めなくてはならなかった。私はさまざまな人をたずねて震災前の写真を求め、過去の写真を集めて展示会を開催して、古い写真を提供してくれるよう呼びかけた。また、大槌町には民俗資料館を建設する計画があり、集めた資料が数か所に保管されていたので、その写真を撮ってカタログを作った。それらをもとに私が勤務していた国立民族学博物館で展示を製作し、それを丸ごと町に寄贈しようと考えたのである。

国立民族学博物館での展示は「津波を越えて生きる──大槌町の奮闘の記録」と題して、2017年の1月から4月まで行なわれた。その中身は大きく4つのパートからなっていた。まず、がれきで簡単なインスタレーションを作り、その上に津波のビデオと津波直後の町を写した写真を投映することで津波の破壊の威力を示した。ついで、町の人びとが地震の直後にどこでどのような経験をしたかを、彼らのことばをインタビュー映像を通じて再現しようとした。第3のコーナーでは、震災の直後にどのような助け合いがあったかを時系列に沿ってたどることで、町の人びとの自主的な動きを示そうとした。と同時に、津波前と津波後の地区の模型を作ることでそうした視点を支えることを試みた。そして最後に、津波の前にどのような人びとの暮らしがあったかを、写真と民俗資料を通じて再現しようとしたのである。



「津波を越えて生きる──大槌町の奮闘の記録」展 展示風景[撮影:筆者]



「津波を越えて生きる──大槌町の奮闘の記録」展 展示風景[撮影:臼澤正男]



「津波を越えて生きる──大槌町の奮闘の記録」展 展示風景[撮影:臼澤正男]


果たされなかった負と再生の記憶の共存

この企画展は好評であったが、これを大槌町に寄贈するという当初の計画は断念せざるをえなかった。2015年の町長選で現職がやぶれ、新町長が選ばれたためである。新町長はすべての復興計画の見直しを行なうことを公約に掲げており、前町長による役場庁舎の保存の方針を撤回すると同時に、文化複合施設の設計を見直させた。その結果、十分な展示スペースも設けられないこととなり、私の展示は行き場を失ったのである。

私はそれ以前に、たまたま行ったバルセロナの市立美術館でジャネット・カーディフとジョージ・ピレス・ミラーの《The Killing Machine》(2007)を目にしたことがあったが(これはYouTubeで見ることができる)、それを含めた彼女たちの創造のテーマは「被傷性」であるということができるだろう。私たちはさまざまな規則や約束事にしたがって日常の生活をおくっている。仕事をし、人と会い、買い物をし、明日の期待と労苦を抱えながら日々生きている。しかし、そうした日常の皮を一枚めくれば、そこにあるのは寄る辺のない、傷つきやすい自己である。カーディフらがくり返しそれを表現することことに向かっているのは、危うい日常の陰に潜む残酷な生の現実を示したいと願っているからに違いない。そして、彼女にかぎらず、均衡にではなく、日常意識を打ち破ってくれるものにアートの存在理由を求める傾向は増えているのである。

酷いまでに痛ましさを示す破壊された役場の横に、その出来事をともに生き、それに抗うかたちで震災後を生きてきた人びとの経験を示す展示を置くこと。それは町の人にとっては、過去の苦い記憶を軽減してくれる手がかりになり、外から来る人にとっては、彼らの経験を丸ごと理解するための媒体になってくれるのではないか。私の企ては実現できなかったが、そのコンセプトは間違っていなかったと考えている。それが実現できたなら、大槌町の人びとの震災の経験を伝えるだけでなく、生きることが否応なく背負う痛ましさという人間の根源的な経験の一端を提示できたのではないだろうか。


★──2018年6月10日、大槌町文化交流センターおしゃっちがオープン。2020年から一般社団法人おらが大槌夢広場が運営。2階に震災伝承展示室があるが、当初の予定の4分の1以下の面積で、展示してあるのも映像資料だけであり、十分な展示機能を果たすにはいたっていない。


津波を越えて生きる―大槌町の奮闘の記録

会期:2017年1月19日(木)~4月11日(火)
会場:国立民族学博物館 本館企画展示場
主催:国立民族学博物館
共催:大槌町、大槌町教育委員会
後援:城山虎舞、臼澤鹿子踊保存会、吉里吉里大神楽保存会