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【台湾・馬祖】かつて最前線だった島の芸術祭、馬祖ビエンナーレ──トポフォビアからトポフィリアへ
栖来ひかり(文筆家/道草者)
2022年04月15日号
2年ぶりの飛行機に乗り、馬祖の芸術祭「馬祖国際芸術島」へ向かった。台湾(中華民国)連江県に属する馬祖列島は、台北から北西に向かって飛行機で一時間弱。合計36個の島からなり、中華人民共和国の福建省福州市まで目と鼻の先の、国境の島々である(Google map)。
馬祖──群島の歴史
中国大陸において1920年代より敵対関係にあった中国国民党(国民政府)と中国共産党は、日中戦争勃発のため一時は協力関係にあったものの、第二次世界大戦終結によりふたたび武力衝突を開始した。
一方で、1895年の下関条約より50年のあいだ日本が領有していた台湾および澎湖諸島は、1945年8月15日の日本の無条件降伏により、戦勝国である中華民国(中国)の統治下に組み入れられた。1947年からは、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の戦争(国共内戦)が本格化するが、1949年には毛沢東の共産党が中国大陸を掌握。北京に「中華人民共和国」を打ち立て、敗北した蔣介石の国民党は台湾に撤退して台北を臨時首都とする(以前の首都は南京)。これより蒋介石の中国国民党(中華民国)は台湾を拠点として中国奪還を最終目標とし、台湾の住民(戦前から住んでいた住民および戦後に国民党とともにやってきた住民)に「大陸反攻」を至上命令として、それに外れるものを徹底的に弾圧した。そこで、対中国共産党の最前線となったのが金門島と、ここ馬祖である。
ウクライナ危機をうけて「台湾有事」(中国による台湾への武力侵攻)の可能性について日本でも議論が活発化しているが、この2つの諸島は1949年以降ずっとそうした「両岸問題」(両岸とは、台湾海峡を挟んだ中国と台湾のこと)の舞台であり続けてきた。また、日中戦争期の日本による金門島の軍事占領を除いて、台湾の領土でありながら戦前に日本統治を受けていないこの2つの地域は「純粋な中華民国」
ともいえる。それが1980年代に台湾民主化が進むうち、モンゴルなども含む巨大な「中華民国」ではない、台湾サイズの「台湾」という共同体意識(台湾アイデンティティ)の高まりによって、馬祖は「内戦の最前線」から中華人民共和国と台湾(中華民国)との「国境」となった。ここは、複雑な歴史背景をもつ「台湾(中華民国)」というネーション(国民国家)を考えるうえでも、非常に重要な場所なのである。1987年に台湾の戒厳令が解除され、また台湾海峡の緊張が緩和されたことを受け、中華民国の最重要軍事拠点のひとつであった馬祖は1992年に軍事管制が解除、1994年から一般開放され、観光客も訪れるようになった。それからちょうど30年、今後10年に渡って開催予定のアート・ビエンナーレの第1回が今年開催されたのである(本来は昨年の開催予定だったが、コロナ禍のために延期になった)。主催は馬祖が属する連江県および中華文化総会。中華文化総会は元々「中国」としての中華民国の正当性を文化の面から国際的に宣伝するために1967年に蒋介石が起ちあげた政府系組織で、その時々の台湾(中華民国)総統が会長を歴任する。民主化以降は、台湾文化の高揚を目標に掲げており、現在の会長は蔡英文総統である。
1990年代より馬祖では、島外から来た専門家と島の異なる世代の住民とが協働して、集落の景観保存やコミュニティの文化資産の保存といった文化運動を進めており、これが今回、台湾初の「島の国際芸術祭」開催の背景となっている。台湾における数々の国際展を手掛け、今回の「馬祖国際芸術島」のオーガナイザーであるウー・ハンツォン(呉漢中)も、1990年代に台湾大学の「建築與城鄉研究所」(地域文化に根差した街づくりやランドスケープ建築についての研究所)在籍中に馬祖の文化運動とかかわったことがこの度の機縁となっている。芸術祭のタイトル「島嶼醸」は、この30年の間に発酵させ醸造された島の「文化」を味わおう(馬祖は「老酒」や「高粱酒」など酒も名物)というものだ。
キュレーターも、長年にわたり馬祖の文化運動と関りのあるセレクトとなっており、作品の多くも島外のアーティストだけでなく地元のアーティストが参加している。
計画に際しては「瀬戸内芸術祭」などにも視察を重ねたといい、アートのみならず飲食や自然環境、生態、民俗など多岐にわたる風土文化に着目した多彩な芸術祭である。本稿では特に、軍事遺構にまつわる歴史と作品をとりあげる。
芸術祭が呼び覚ます負の記憶
馬祖の行政や経済の中心である南竿島(馬祖島)に到着すると、山手のほうに赤い文字で「枕戈待旦」というスローガンの書かれた建物が見えた。「枕戈待旦」の「戈」とは古代中国における長刀のような武器のこと、つまり「武器を枕にして、油断することなく時機を待つ」という意味だ。
「あの『枕戈待旦』は、俺たち兵隊がつくったんだよ!」
今回、芸術島ツアーにご一緒したメンバーのひとり、建築家で國立陽明交通大學建築研究所教授のゴン・シューツァン(龔書章)さんが指をさして教えてくれた。ゴンさんはかつて兵役のために馬祖で過ごした際、建築士としての知識を持つことから、1987年に完成した馬祖のランドマークともいえるこの軍事スローガン建設に参加した。
中華人民共和国を仮想敵としてきた中華民國(台湾)には、1949年より住民男子に対して兵役義務が課せられている。近年では期間も4カ月ほどの簡易的な軍事訓練となったが、かつては2年から3年で訓練内容や環境もいまよりずっと厳しく、命を落としたり精神を病んだりした人も少なくなかった。当時の兵役の状況を聞けば聞くほど、いま生き延びて話を聞かせてくれる台湾人男性らは皆「サバイバー」であると感じる。軍事最前線の金門と馬祖での兵役は特に過酷で、抽選でもしその2カ所に配属が決まれば「金馬奨を獲った」(中華圏のアカデミー賞にあたる映画賞のこと)と揶揄された。敵の襲来に備えつつ、しかし資源は限られており、兵役で配属された青年たちはあらゆる労働に駆りだされた。トーチカ用のトンネルづくりや、石炭などの資源をまかなうための炭鉱開発。採掘機械があるわけでもなく、ひたすら手作業で掘る。元はむき出しの岩山であった馬祖の島々は、いまは緑色の植物に覆われているが、これらは軍事施設を隠すために兵隊たちが植えてまわったものだ。植物にはサボテンの一種であるリュウゼツランやアロエなど棘を持つ尖った植物が多い。空からパラシュートで敵が降りて来るのを想定し、そうした種類がわざわざ選ばれたので、人的に施されたいわば「自然の迷彩色」ともいえる。潜水して崖から登ってくる敵に備えて、海岸沿いの岸壁一面にはセメントを使って割れたガラスの破片が埋め込まれている。そうして、士気を高めるために島のあちらこちらにあるセメントで出来た巨大なスローガン建築も、兵隊たちが手作業で仕上げた。
あまりの辛さに、当時の記憶をわざと記憶の奥の奥へと追いやってきたので馬祖で過ごした時間が「空白」のようだというゴンさんは、芸術祭であちこちをめぐるうちいろいろな記憶が蘇ってきたよと苦笑いした。
軍事遺跡のなかのアートプロジェクト
台北ビエンナーレ2020「あなたと私は違う星に住んでいる」のパブリック・プロジェクトなど近年数々の展覧会を手掛けるエヴァ・リン(林怡華)キュレーションのプロジェクト「地下工事(Underground Matters)」の展示がある南竿島の軍事拠点「77拠点」では、海岸に面したトーチカ(射撃窓)まで蟻の巣のようにのびる地下防空壕を深く潜っていくうちに展示が現われる。
リアム・モルガン(Liam MORGAN)は、地下に植物を設置し、人造光線と水遣りの装置を使って、長い期間にわたる地下坑道の環境が生命にどのような影響をもたらすかを観察するインスタレーションを発表。エヴァ・リンによれば、かつて地下生活を余儀なくされた兵役経験のある参観者はこの作品を見て涙を流したという。
建築家でランドスケープデザインを手掛けるチェン・シェンチェン(陳宣誠)がリャオ・イーメイ(廖億美)(好多様文化工作室)とともにキュレーションしたプロジェクト「島の声を聴く(傾聽島嶼的聲音/Listening the Voices of the Island)」においては、53拠点の海に向いたトーチカの銃口を題材にした作品が印象的であった。1年を通して雨や霧の多い馬祖でも、時には眼下に真っ青な海原と抜けるような空が広がる日がある。そんな海の面立ちが射撃窓によって切り取られた光景は額縁にはめられた1枚の絵だ。しかし夕陽が落ちる西側の海の向こうは敵地である。射撃窓から広がる景色のなかに、いつ敵を発見するかという恐怖。逆にいえば射撃窓とは、敵から攻撃をうける対象でもある。
同じく最前線である金門と馬祖は多くの点で共通する部分と異なる部分があるが、最大の違いは金門が実際に戦地となった(金門戦役・1949/金門砲戦・1958)のに対し、馬祖では一度も実戦がなかったことである。馬祖における「窓=銃口」は、なかば永遠のようにいつ来るともしれぬ敵を「待ち続ける」時間の連続を象徴する。
地元の文化発展のため美術教育を推し進める馬祖のアーティスト、ツァオ・カイチー(曹楷智)は廃棄された坑道の空間をアーティストらのスタジオおよび交流の場として生かすための作業を自らの身体をつかって昼夜問わず行なっていた。私が訪れたときはちょうど、埋められた採光穴(もしくは銃口)が掘り返されているところで、関根伸夫の《位相−大地》を連想した。軍事遺跡に留まった時間を物質に置き換えたような土を掘り返すことで、郷土に埋められた物語と対話しているようだった。
過去・現在・未来が呼び合う場所で
馬祖には100カ所以上の軍事拠点が残っているが、島民も足を踏み入れたことのない神秘の場所で、今回の芸術祭のために初めてその一部が一般開放された。いや、軍事拠点にとどまらず、長いあいだ島の大部分が軍事基地であったため、島民自身にとっても自分の暮らしている島のごく一部の生活空間のみが自由に行き来のできる親しい場所であった。この芸術祭の準備からリサーチ・制作・運営・参観、ワークショップに島民がかかわることは、島民自身が馬祖という複雑な歴史をもつ「場所」そして「風土」との関係性をその手に取り戻していく過程である。
そうした意味で、象徴的な作品が南竿軍人記念公園に制作されたリャオ・ジェンツォン(廖建忠)の《珠螺村芸術装置(Zhuluo in Blossom)》であろう。古来より福州に入る商船の多くが停泊し、希少な生物分布が見られる馬祖だが、ながらく戦争が珠螺村の人々の運命を握り、島民が耕していた農地なども、戦後、軍事用地となった。軍人記念公園から見下ろすことが出来るのは1968年に建設された「天馬基地」で、色とりどりの風船に手紙や洋服、飴や日用品など宣伝物資をつけて中国側に飛ばし、「自由で豊かな祖国」をアピールした作戦基地だったことで知られる。アーティストは連江県の県花であり、島の原生種でもある「彼岸花(曼殊沙華)」をモチーフに、大砲の模型を花の茎に見立てて、2度と故郷が失われることがないようにと願いを咲かせる。兵器の進化と情勢の変化により、もし台湾有事が起こるとしても金門や馬祖への上陸進攻は現実的ではないといわれている。この地が最前線でなくなった現在、それでは最前線はどこなのか? 日々ニュースから流れて来る痛ましいウクライナの戦争の映像を、自分ごととして考えている台湾人は少なくない。このタイミングで、この生々しく戦争を予感させる地でアートビエンナーレが開催されることは示唆に富む。
馬祖民俗文物館では、ランドスケープアーキテクト、ビジュアルアーティスト、サウンドアーティスト、歴史研究者、植物研究者、フォトグラファーなど異なる専門領域をもつ人々により、島のフィールドワーク・リサーチや採集を通して、島と海洋、歴史、人と環境をめぐる未来に対して思索・提案する「馬祖学」の確立ともいえる展示がなされた。
人文主義地理学を提唱したアメリカの地理学者、イーフー・トゥアン(段義孚)は「場所は、人間の秩序と自然の秩序との融合体であり、私たちが直接経験する世界の意義深い中心である」といい
、人々がもつ「場所」(トポス)への愛着や情緒的な結びつきを「トポフィリア(Topophilia)」と呼んだ。そしてまた逆に、恐怖を呼び起こす「場所」を「トポフォビア(Topophobia)」と名付けている。「トポフォビア」から「トポフィリア」へ。かつて最前線だった島で、アートは風土と記憶の亀裂を縫合し、傷跡をやわらかく包み込む。馬祖の芸術祭を訪れたこの3日間、珍しく天気がよく暖かい日がつづき、どの場所もそれは美しかった。ツアーに同行したゴンさんは、53拠点の作品たちの向こうで夕陽が鱗粉を撒き散らすように溶け落ちゆく海を見つめながら、「暗い記憶が塗り替えられていくみたいだ」とつぶやいた。
馬祖国際芸術島
会期:2022年2月12日(土)〜4月10日(日)
YouTubeチャンネル:https://www.youtube.com/channel/UCfv2ZkkyUa6YzJEBEuGiygQ
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