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【イルクーツク】岐路に立つ帝政期の建築遺産と都市に文化を付与する試み

多田麻美(アートライター)

2022年08月01日号

文化遺産として価値はあるが、極度に老朽化した伝統建築をどうするか。誰が保護し、維持するのか。これは共産主義体制による「公有化」という歴史を経た国では、近年、共通の課題だ。そんな今、シベリアのイルクーツクでは、大型の伝統建築の行方に注目が集まっている。今回は、その保護、復元の試みや、現代アートを通じて都市にアイデンティティを付与する活動に迫ってみたい。

遠ざかる世界遺産登録

新型コロナ流行の影響に重ね、さらに自国軍のウクライナ侵攻による数々の影響下にあるロシアでは、多くの国際イベントが中止、延期、および規模の縮小を余儀なくされている。ユネスコの世界遺産委員会が今年6月にロシアのカザンで開催を予定していた年に一度の世界遺産委員会もその例に漏れず、無期限延期となった。ロシアでは、文化財建築の保護が多くの問題に直面しているうえ、ウクライナ侵攻においても、文化財の破壊は憂慮される問題となっている。ゆえに人々の意識の向上に一役買ったであろう委員会の延期はなんとも残念だ。

じつは筆者が拠点を置くシベリア東部の町、イルクーツクは世界遺産と縁が深い。そもそも1996年に隣接するバイカル湖が世界遺産に登録されているうえ、イルクーツクの旧市街地も、19世紀の木造建築などが多数残されていることから、長らく世界遺産の予備リストに入っている。だが、登録が実現しそうになった頃、火災によって伝統建築の街並みが連続性を失ってしまった。その後は、文化財保護の関係者のさまざまな努力にもかかわらず、保護対象の建築さえ櫛の歯が欠けるように失われつつあり、関係者によって「世界遺産登録からは遠ざかる一方だ」といわれている。



昨夏見かけた街角の展示。「消えゆくイルクーツク」との題で、保護すべき文化財建築が紹介されている


だがそれでもまだ、イルクーツクには帝政時代の建物が少なからず残っている。理由には、2度の世界大戦で戦火を被らなかったこと。また町を襲った1879年の大火の後に消防局が整備され、富商たちもこぞって耐火性の高いレンガ造りの建物を建てたことなどが挙げられるだろう。

そもそも、共産党政権下の建築文化遺産は、多難な道をたどった。由緒ある教会が製菓工場やアダルトショップとして使われたり、富豪の屋敷跡が水回り共用のアパート「コムナルカ」に改装されたり、といった調子だ。新生ロシアになっても、空き家のまま放置されたり、経済的に貧しい人々が住み着いたりして、十分なメンテナンスができぬまま老朽化が進み、結局火事や倒壊によって失われたりする伝統建築は少なくない。

近年は、伝統建築の保護の動きも活発で、一部のごく幸運な建物は、修復や移築を経て民家や店舗、オフィスなどとして利用されている。だが、メンテナンスや改装の必要な建物が多すぎて多勢に無勢といった状況で、崩れるに任されている建物はあまりに多い。文化財保護の対象になっている建物でさえ、十分に守られていないのが現状だ。そんななか、近年は保護対象の大型建築のいくつかが、岐路に立たされ、さまざまな命運をたどった。

消えた「街の煙突」

赤と白の高い煙突が長らく街のシンボルとなっていた旧中央発電所(ツェス。ロシア語で中央発電所を表わす言葉の略称。英語ではCES)の解体は、その敷地が街の中心部にあったこともあり、広く話題になった。

まだ帝政下にあった1910年創業のツェスは、アンガラ川のほとりにドイツから技術者を招いて建設された。ツェスは東シベリアで最初期に稼働した都市型発電所で、1914年には、東シベリアで初めて蒸気タービンも設置された。1986年に最後のタービンと発電機が取り壊された後も、この建物はその強力な電気式蒸気ボイラーによって、2000年代までイルクーツク市内のセントラルヒーティングを広く担ってきた。

その歴史ある建物はもともと、ロシア文化庁により文化遺産に登録されていたが、2017年にリストから外され、2019年に取り壊しが決定した。そもそもは2016年からイルクーツク出身の著名ピアニスト、デニス・マツーエフが提案したクラシックに特化したコンサート・ホールを建てる案が進められ、コンペによって設計者も決まっていたが、最終的に国から予算が出なかったことで挫折。煙突だけを街のシンボルとして残す案なども採用されなかった。2019年に煙突が撤去されたあと、徐々に進められていた解体は、昨年、最終段階に入った。



旧中央発電所の解体現場



正面から見た解体現場



建物内部



窓から眺めたアンガラ川



ソ連時代から残る、革命家を象った彫刻


今年はすでに、敷地の一部で新しい建物の建設が始まっている。幸い、周囲に数多く残る古い建物と調和したクラシックなデザインで、所有者が以前と同じ電力会社であることから、建物の用途も移送ポンプを設置するためのものらしい。ただ、残りの敷地には、高級マンションが建てられる予定だという。



建設中の新しい建物。プレートは跡地に建てられる建物を示す


役目を引き継ぐ士官学校跡

もう一つ、最近その行方が話題になったのが、イルクーツク高等軍事航空工学学校の広大な敷地に残る建物群だ。帝政下の1874年に開校したイルクーツク士官学校の遺構で、1910年に同校はイルクーツク陸軍士官学校に改編された。さらにさまざまな曲折を経るも、1931年から2009年までは一貫して空軍の技術者やエンジニアを教育する軍事教育機関であり続け、2009年にロシア南西部のヴォロネジ市にある施設に吸収合併されるまで、航空技術関連の専門家を養成するロシアで唯一の本格的な軍事教育機関だった。かつては義務の兵役で空軍を志願した者の多くも、ここで一定期間、訓練や労役をしたという。

この夏、その敷地を訪れると、中はまるで小さな町のように広大だった。居住区では今も住民の姿が見られたが、かつては訓練がしやすいように平らだったという広場は荒れ、軍事施設に特有の整然とした秩序も失われていた。敷地がロシア国防省の所有物であったため、市当局も手を入れることができず、建物も庭も荒れるに任せられていたらしい。懐かしい兵舎の最後の姿を一目見ようと、徴兵中の兵士や職業軍人としてかつてここで過ごした人々が、何人も訪れていた。



2022年7月に訪れたときの士官学校の敷地、奥は射撃場跡



同上、兵舎跡。中庭には雑草や雑木が茂っている



同上、兵舎跡の内部


転機は急に訪れた。2020年、現大統領府の支援により、至急この敷地に新しい社会施設とシベリアで初めてのスヴォーロフ軍学校が建てられることになった。建設プランは同年末には公開討論を経て可決され、2021年9月の開校をめざすことになった。 スヴォーロフ軍学校というのは、18世紀の有名な将軍の名にちなんで名づけられた学校で、軍事関連の科目を重点的に教える、10歳(5年生)から17歳(11年生、日本の高校2年生に相当)までの男子のための寄宿学校だ。モスクワ、エカテリンブルグ、カザンなどロシア各地に分校がある。

当時はまだウクライナへの侵攻が始まる前でもあり、学校の誘致に合わせて敷地内に幼稚園や診療所などが複数設けられ、治安の問題も解決するということで、「広大な廃墟よりはいい」と、地元の住民の多くはこの決定を喜んでいたという。だが、今から振り返れば、急ピッチで進められた計画は開戦に備えて軍事面の環境を整えるためだったようにも見えてしまう。連想せずにいられないのは、第二次世界大戦中のモスクワ攻防戦で、シベリア出身の兵士が大量に投入された事実だ。

だが、いざ建設を始めようとした時、フ・ポーレ・ズレーニヤ基金からの横やりが入った。本来の計画では、旧校舎や軍事体育館などはほぼ元のままの形に修復して活用されるが、兵舎や教師用の住宅などは保護範囲に入らない予定だった。だが、フ・ポーレ・ズレーニヤ基金はそれらも保護範囲に含めるべきだとして、文化財保護部門を相手に訴訟を起こした。フ・ポーレ・ズレーニヤ基金とは、都市イルクーツクの発展を促すプロジェクトを企画したり、都市計画の作成に市民の声を生かしたり、市の文化財保護部門に保護すべき建築を提案したりしている団体らしい。だが結局のところ、「すでに廃墟化して12年も経っているのに、なぜ今になって保護を唱えるのか」とする上層部に押し切られ、現在、2023年の完成に向けて急ピッチで建物の修復が進んでいる。将来的には、5年生から11年生まで合計420人の士官候補生を擁するようになるそうだ。筆者の正直な感想を言えば、最初の卒業生が出るまでに世界が平和になっていることを祈らずにはいられない。

巨大サウナ施設の復活

もう一つ、建物本来の用途が復活する例は、旧クルバートフ公衆浴場の復元だ。先述の旧中央発電所と同じくアンガラ川のほとりにあり、前身は革命前の1910年に創業した高級浴場で、個室のロシア式サウナがメインの、飲食もできる高級浴場だった。建設当初は1階建てだったが、のちに2階部分が増築されたという。電気を使用できた最初の浴場ともいわれ、調度や内装なども最高級のクオリティを誇ったが、革命後の1917年に公有化された。庶民の浴場となったソ連時代も、衛生管理上の問題こそ多少あれ、人々に愛され続けたが、部分的な閉業を経て1980年には廃業。その後は長らく放置され、90年代以降は建物に使われていた良質のレンガなどが勝手に持ち去られ、売り払われるまでになった。

2000年初頭には、現代アート作品の制作や展覧会なども行なわれ、建物や環境を生かしたインスタレーションなどが展示されたそうだ。だが、本格的な修復を行ない、ワークショップなどのためのクリエイティブなスペースを設ける試みは成功せず、医療施設として利用するなどの別の案も実現せず、さらなる廃墟化が進んだ。犯罪の温床となって暴行や殺人事件が繰り返し発生し、敷地内で弾薬庫まで見つかるに至り、やむなく2011年に取り壊された。

その後、まったく異なる建物を建てるという案もあったが、曲折を経てやはり復元がいいということになったそうだ。やがて敷地の前に復元プロジェクトの開始を告げる告示が張り出され、さらに数年の遅れを経て、昨年からいよいよ本格的な復元工事が始まった。専門家200人を巻き込んだ、ウラル山脈以東で最大規模の復元工事ということで、7月中旬に発表されたニュースによれば、コンクリートと防水関連の工事はすでに95パーセント以上、屋根もすでに40パーセントが完成しており、2023年の竣工と開業が予定されているらしい。完成後は、浴場、ホテル、プール、レストランなどが完備した、リクリエーション施設になるという。

筆者は北京でも、清代創業の人気大型浴場が、革命後も長らく人々の憩いの場だったにも関わらず、人々の生活習慣の変化や水不足による営業用水の意図的な値上げなどによって、21世紀初頭前後に苦境に陥り、次々と廃業に追い込まれた経緯を目にしている。しかも、クルバートフの場合は総面積3.5千平方メートルという、ケタ違いの大きさだ。やはり水資源に恵まれ、水道代も安いイルクーツクだからこそ踏み切れたのであろう。

ちなみに、経済制裁の影響で、ロシアでは製品の原材料の一部が手に入らず、生産が滞る例が増えているという。外国産の建材や建設設備に関しても同様で、もともと供給過多の木材は別として、今後も価格が上がったりして、入手が困難になる建材や設備が増えていくとみられる。住宅の建設も減少するといわれているなか、復元工事もその影響と無縁ではいられないであろう。場合によっては再び建物や跡地が放置されることもあり得るため、今後も工事の行方を引き続き見守っていきたい。



2022年7月時点の工事現場


焼けた校舎跡がアートスペースに

筆者の本心を言えば、クルバートフ浴場については、サウナも悪くないものの、やはりクリエイティブスペースになるという案に一票を投じたかった。そんな筆者の願望に応えるかのように、昨年末、別の大型建築がアートスペース「アゴニ(Fire、火)」に生まれ変わった。

市の中心から近いマラータ通り11番地にある建物は、1860年代に建てられ、革命前は貧しい者たちの世話をする無料宿泊所を兼ねた救済施設があったとされている。革命後は文化大学の所属となり、1階部分は長らくコムナルカとして使われた。1994よりシュタイナー学校の校舎になったが、2019年に同校がより広い建物に移転すると、空き家となった。2020年に1階部分で出火したが、改修のめども立たずにいたところ、アーティストのアレクセイ・ドミトラコフがこの建物の管理人で慈善家のアナトリー・イェゴロフのすすめで個展をこの建物で開くことにした。ドミトラコフはその展示で、火事の焦げ跡まで生かしたという。やがて校舎跡を現代アートの展示スペースにする計画が立てられ、わずか2カ月の準備期間を経てスタートしたのが、アゴニ現代アートセンターだった。メインの展示室2つは建物の2階部分にあり、このほかにレクチャーなどもできる図書室、喫茶スペース、ショップスペース、事務室などが設けられた。



建物の2階へと続く踊り場


建物に残る火事の跡は敢えて残し、建物が自らの過去の歴史とつながりを保てるようにしてある。だが、センターが「アゴニ(火)」と名付けられたのは、火事が起きた建物だから、という理由からだけではない。「生命の象徴である火は、その暖かさゆえに、周りに人が集まってくる」からだ。イルクーツクは地理的に世界遺産バイカル湖の近くにあることから、バイカル湖観光の入り口にある都市としてコロナ禍前までは世界中から人が集まってきた。ただ、街中に目立つ観光地が少ないため、そのまま「素通りされやすい」面ももつ。その流れを変え、「イルクーツクが独自の文化とアイデンティティをもつ都市として認識され」、街の文化がイルクーツクに来たい、住みたいと思ってもらえるようなものへと発展することが、「アゴニ」設立の目的だ。

「アゴニ」という名がふさわしい理由はもう一つある。同建物のはす向かいに、これまた築200年以上の歴史建築である「消防局の第3分署」があることから、名称には会場の地理的特徴や環境を覚えやすくするという効果もある。

「アゴニ」で6月末から開かれていた「個人的に、お金について」展は、『お金』をテーマにした、表現のジャンルを問わない公募展だった。

表現手法としては粗削りなものも目立った今回の展示だが、なかにはユニークなコンセプトや表現力をもった作品もあった。絵画が持つ金銭的価値とは何かを問うた「絵画展」シリーズ、コイン、紙幣、電子マネーとその受け取り手の関係を隠喩的に表わしたマフニョフのインスタレーション、ロシアの貨幣の最小単位で、価値はルーブルの十分の一であり、現在はほとんど使われなくなったコペイカを象ったラザレバの作品、トチェチニクによるビットコインの創始者とされるナカモト・サトシの肖像画などだ。会場では、空想上の「ゼロルーブル」紙幣を印刷した紙も配られた。



左:エカテリーナ・ラザレバ(Ekaterina Lazareva)「コペーチカ」
右:クセーニヤ・クリョノヴァ(Kseniya Klenova)「絵画展」シリーズより、「定式化された絵」、「この絵は575,614ルーブルの価値がある」と書かれている



左:チモフェイ・マフニョフ「お金に関する隠喩的なインスタレーション」
右:「アゴニ」主催のワークショップの参加者による「招き猫とコインの山」



左:ゲオルギー・トチェチニク(Georgii Tochechnik)「サトシ・ナカモトの思い出」
右:ニキオ・カレト(Nikio Kareto)「自画像」



会場の一角



会場入り口に置かれた「ゼロルーブル」


ありふれた貨幣のもつ重み

作品募集にあたって提示されたテーマの一部は次のようなものだった。「現在、金銭がもつ役割とは。それは物と物の交換を楽にするのか」「なぜ『グローバルな成功』という発想は失敗に終わるのか」「なぜ我が家の窓辺に金のなる木があるのか」「未来の社会がキャッシュレスとなる可能性はあるのか。あるならどのようなものか」。その問いの多くは、経済制裁のもと、通貨や金銭的価値をめぐる議論が活発になっているロシアの情況が反映されたものだ。

テーマにある「金のなる木」とは、イルクーツク州に世界の10パーセントが集中しているといわれる、ビットコインのマイニングマシンのことだ。マイニングには豊富で安価な電力が不可欠だが、アンガラ川沿いに、世界第4位の貯水容量を誇るブラーツク水力発電所を含む3つもの水力発電所を擁するイルクーツク州は電力が豊富であるため、とくにブラーツク市などにはマイニングの設備が集中している。また、同じくマイニングに不可欠な設備の冷却に関しても、冬はマイナス30度にもなるイルクーツクの気候は天然の冷蔵庫となっている。そこで、イルクーツクでは職業や世代を問わず、副業としてマイニング施設を自宅に置く人が増えている。イルクーツクにおけるビットコインブームは、町に見かけるグラフィティに、ビットコインをテーマにしたものが少なくないことからも明らかだ。

現時点のロシアでは、仮想通貨の取引は合法だが、それを使った決済は禁止されている。だが抜け道はあり、規制下に置きつつ取引を管理したい財務省と、仮想通貨そのものを禁止したい中央銀行の間でせめぎあいが続いてきた。西側諸国では暗号資産がロシアへの経済制裁の抜け穴になることが懸念されているが、暗号資産まで規制されるようになれば、仮想通貨が本来持つ中立性が失われるという指摘もある。まさに今、経済戦争、金融戦争の最前線にあるのが仮想通貨なのだ。

現在のロシアで表現活動をする場合、戦争にまつわる何かにまったく触れないことは難しい。だが、学校の教員までがただ反戦を口にしたがために教育機関から追い払われているなか、社会全体に開かれた展覧会や作家が政権批判や反戦をテーマにすれば、表現行為自体が封じられてしまう結果になりかねない。だが、我々の誰にとっても身近でありながら、壮絶かつ複雑な国際紛争の刃ともなっている「お金」や「通貨」をテーマに据えれば、タブーを避けつつ、現実を見据えたさまざまなアイデアや印象などを反映させやすい。企画者の意図は、バランス感覚に富み、巧みだ。もちろん、展覧会にそんな「バランス感覚」など不要となる日が一日も早く訪れるのが一番ではあるのだが。


旧中央発電所

Ulitsa Surikova, 25, Irkutsk, Irkutskaya oblast, 664025

旧イルクーツク士官学校

Ulitsa Sovetskaya, 176, Irkutsk, Irkutskaya oblast, 664009

旧クルバートフ公衆浴場

Ulitsa Gavrilova, 2, Irkutsk, Irkutskaya oblast, 664025
(Ulitsa Tsesovskaya Naberezhnayaとの交差点)

個人的に、お金について

会期:2022年7月8日(金)〜8月14日(日)
会場:アゴニ現代アートセンター(Center for Contemporary Art)
Ulitsa Marata, 11, Irkutsk, Irkutskaya oblast, 664025