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小さなアートスペースと「公共」のあわいを見つめながら──ともにあることへの賭けとmonade contemporary | 単子現代の試み
F. アツミ(Art-Phil/monade contemporary|単子現代)
2023年07月01日号
COVID-19が世界を騒がせ続けたこの約3年の間に、人が集まる場を新しくつくる。そういった営みを知るたびに、安易に「挑戦」のようなアングルを付けて解釈してしまいそうになるが、人と人の連帯や、共にあることの意義が大きく変化し多様化していくなかで「新たに始める」人々を突き動かす出来事や温度感は、実際のところさまざまだ。
あるきっかけから2022年7月、京都祇園にアート・ギャラリー/イベント・スペース「monade contemporary | 単子現代」(モナド・コンテンポラリー|たんしげんだい)を開くことになったArt-PhilのF. アツミ氏は、展示活動・イベント運営といった実践の場をもつことで否応なく変化する物事と、以前から積み重ねてきた編集/批評、美術の間での思索をより深めているという。オープンから1年、単子現代のこれまでとこれからについて寄稿いただいた。(artscape編集部)
アートスペースづくりは偶然と失敗から始まった
きっかけはひとつの偶然から始まった。ある友人の失敗とともに。そして、その失敗への参加とともに。アート・ギャラリー/イベント・スペース「monade contemporary | 単子現代」を京都市東山区月見町、祇園南側で2022年7月にオープンして1年が過ぎようとしている
。当時、文化的なイベント・スペースをつくろうとした友人が資金や契約などをめぐる社会的な障壁を前に進めない状況を横目に、アートスペースづくりを編集/批評という立場から実践する場所として始めてみようと思った。振り返ると、その友人はある別のテナントでオープンする予定になっていたものの、どのような理由からか実現することが難しくなってしまったという。友人が失敗を前に残念がる様子を前にしていると、何か抗いがたい力のようなものを感じた。子どもが炎の中にいたら救おうとするだろう
という言葉がなぜか脳裏に浮かんだ。京都市の三条から五条にかけて、COVID-19後の余波で閑散としたまちを歩くうちに、祇園南側にある「月見町」という幻想的な名に導かれて廃墟のようなテナントに辿り着いた。いま、2022~23年にかけて、アートスペースをつくるというのは、どのような意義をもつのだろうか。COVID-19という危機的な状況の後に、アート、あるいはアートスペースはどのようなものとしてありうるのだろうか。これまで哲学や現代思想に重点を置いて編集/批評/出版といったコンテクストからアートやアートシステム、そこから社会というものに関わってきたひとりとして、小さなものだが、アートスペースをつくるという試みについて書いてみたいし、読んでほしい。単子現代は、現在のアート・哲学・社会について考え、実践するための展示活動を行なうことをコンセプトとして、展覧会やイベントを展開している。アートと哲学を媒介とした社会実践、アクティビティだ。
しかし、どのようなアクティビティが可能になるのか。その実現されたアクティビティはどのように社会に影響を与え、目にすることができるのだろう。あるいは、少なくとも自分自身が実感し、誰かと交換、あるいは共有することができるだろうか。そのような問いについて考えながら、主にコンテンポラリー・アートに関わる展示活動を行なっている。誰もがそれぞれの仕方で考えている普遍的な問いだが、自分なりに批評という立場から可能になるアクティビティのあり方を試行錯誤する日々だ。
批評というものについて、アートと哲学との関わりから考えてみよう。よく知られるように、ドゥルーズ=ガタリは『哲学とは何か』
において、哲学とは概念を創造することにあるといっている。概念はひとつの出来事であり、そのなかで何かが起こり、新しい世界の捉え方が生まれるという。人々がある場所でアートを介して出遭うことで、その人が変わり、別の社会をつくる可能性が生まれるのだとしたら、批評もまた、アートを媒介とした問いや探求を通して自己変容あるいは社会変革に向けた力を実現させることができるのではないか。この自己変容と社会変革のプロセスを記述することが批評にできるとしたら、そのとき、批評はひとつの社会実践、あるいはアクティビティとしての力を獲得することができるかもしれない。でも、どのように? 批評の実践とともにアートスペースをつくることに向けられた単子現代の賭けは、この問いをめぐる探求とともにある。過去1年間の活動を振り返りながら、いくつかの展覧会とともに考えてみよう。
アートと哲学、批評から歴史/物語を問い直す
批評を書くということやアートスペースをつくることについての間で考えながら、単子現代ではこの1年間、そのときどきの状況に応じるかたちで場所、歴史と物語、そして変容といったコンテクストからものごとを考えられそうな展覧会が実現した。展覧会に参加してくれたアーティストには旧知の友人もいれば、偶然のように知り合った人もいる。それぞれの活動や作品のコンセプトは哲学や現代思想のコンテクストのなかで問いを投げかけていると考えられるし、あるいはそのような視点から対話することができ、また解釈し、批評する余地があったように思う。
単子現代のプレオープニング・イベントとして2022年の春先に行なわれた映像作家の尾角典子とニットデザイナーの具志堅幸太による「いととし てのいと」では、かつて店舗として使われていたスケルトンのスペースがDIYでアートスペースになろうとするプロセスと併走するかのように、青い糸は手で織られ、「すきまのおと」「よめるかな」「きこえないいと」という文字になり、服、生きもののようなものへと変容していく。ひとつの想念、音、言葉から、ひとつのスペース、世界が生まれようとするはじまりの音楽がそこにはあった。
公式なオープニングの展覧会となった、美術家の村山修二郎による「遊動 / Nomadism」では、全国各地で植物と人、コミュニティの関係性に目を向けて活動してきたプロジェクトの紹介とともに、草や木、花をはじめとする生の植物を紙や壁に素手で擦りつけて描く「緑画(りょくが)」の作品が展示された。美術家の手による緑画のストロークの一つひとつがミクロコスモスとマクロコスモスをつなぐ襞となって、人々の内側にある心と外側にある世界の干渉面とその遷移を表現しているかのようだった。
歴史と物語の間でいまの社会状況について考えさせてくれる展覧会もあった。リッツ・モネ「Air From Another Planet | 異星からのエア」では、旧ソ連圏の国々による宇宙ミッションの記念切手やオベリスクのモニュメントをモチーフとした絵はがきでできたコラージュ、現代の都市風景から考察される廃墟と革命についてのテクストとイメージからなる出版物、マクドナルドの黄金のアーチと現在の共産主義国の象徴的なアイコンを組み合わせたバッジを手にとることもできた。
歴史というものが男性の人々を優位とする権力関係のもとで進んできた物語であったとすると、その物語は女性など男性以外の属性をもつ人々にとってはどのような物語として受け取られ、あるいは見直されうるのだろうか。江幡京子による「月の沙漠 | The Desert Moon」では、最愛の父を在宅で看取るという死の予感に直面し、父との思い出を井戸の底へと降りて回想し、医療や経営など科学的なロジックの暴力性に抗おうとするひとりの女性の物語が展示壁いっぱいにプロジェクションされた。
人が誰かとともにあるとき、そのときどきに世界は変わる。HASE.の「残ったもの」では、モチーフは具象と抽象のあわいと余白のなかで溶け合い、漂っている。誰かあるいは何かと出遭うという偶然が、人の前に現われる世界を変えていく。その世界の移ろいのなかで、人々の生存の条件は他者とともにある状況によって組み変わるということを感じられた。
アートが状況をつくるのか、それとも状況がアートになるのか。ものとこと、ものごとがアートになるという出来事は、どのような状況において実現するのだろうか。Karine Fauchard / Lazar Lyutakovによる「Extolling the Virtues of Pine Needles over Peach Blossoms|桃花に松葉の美徳を称えて」では、花鳥風月のモチーフがフォーマリスティックな形象として再構成され、日用品の素材は形象のなかで生気を湛えていった。
これまでの展示活動を通して、こう考えるようになった。アートスペースは、アートを媒介に「私」の物語を「公」の歴史に対して衝突させ、直面させ、対話させることによって、創造と運命とがひとつになるような瞬間
とともに「公共」へと変容するのではないかと。アートスペースは自己変容の予兆と社会変革の契機を生産するインスティテューション(制度/機関) として機能することで、人々は自分自身の物語/歴史を他者への配慮(ケア)のなかで見直し、新しい歴史/物語のなかで世界をつくることができると考えてみよう。自己変容と社会変革の最小回路、もっとも小さなかたちでの革命の契機ができるとき、ものごとはアートになる。アートを革命的な運動のモニュメント として捉えてみよう。「ルンブン(共有の米倉)」を日本で実践するとしたら
monade contemporary | 単子現代ができた2022年において、おそらくアートワールドでもっとも注目された話題のひとつとして挙げられるのは、アーティスト・コレクティブのルアンルパを芸術監督にむかえた「ドクメンタ15」
での炎上騒動だろう。ルアンルパが提起する「ルンブン(共有の米倉)」 という概念と、特にヨーロッパ・アメリカ圏における人種差別の歴史が衝突することになった一件は、ソーシャルネットワークシステムによって加速する分断と対立の動きとしても象徴的な出来事だ。「芸術ではなく、友だちをつくろう」というルアンルパのモットーのもと、友達を寄せ集めようとしたら、燃えたということになるのか。それとも、歴史の調停に失敗したということか(成功というものが何を指すかについては措くとしても)。アートと食、そして歴史との関わりから「ルンブン」を見直してみると、もの、人、金、情報、ネットワークなどを収集し、共有し、再配分することをめぐるネゴシエーションのプロセスにおいては、他者の物語/歴史をものごととともに我有化し、身体化することが可能になる。かつて「関係性の美学」
でアートスペースで人々が食事をともにすることが注目されたのは、飲食という行為や食というものごとが言説によって分節化されたコンテクストを超えて、人々が集まり出遭うことが可能になる偶然の唯物論を促すからだった。そして、そこからアートを媒介とした社会的な相互作用や交流が生まれるのではなかったか。ところで、日本において「ルンブン」というものについて考えるとどのようになるのだろうか。ひとまずアートと食のかかわりについて考える、というよりもむしろ体験を深めるために、単子現代には一部の区画にキッチンを併設している。キッチンには、「ことばを食べるカフェ みずうみ」という「自分自身を見つめる観光」をコンセプトとする活動があり、そのほかにもアートに触発されたレシピやカクテルを提供する「unearth」といったイベントや、京都を中心に活動している「みず色クラブ」の出張営業などをしてもらうこともある。カフェやバーでの飲食という行為、さらにいえば行動は、視聴覚と言語の不在あるいは欠損を補うメディアとして機能し、同じ場所に居やすくさせてくれるという効果があるのだろう。
アートやアートヒストリーを通してすでにある歴史/物語に抵抗の契機を見出すトランスナショナル
というコンテクスト、あるいは管理社会におけるケアする人/ケアされる人といった行為をめぐる革命的な原理 は、その場所に人々が集まり、ともにあることから始まる。飲食という行為が友/敵という二項対立が未分化な状態で起こる とき、人々の言葉は食事とともに他者の声と意図との間で融解し、分離しながら、それぞれのものになるだろう。アートスペースにおける飲食の時間にあって、誰かにとって大切な言葉が取るに足らないものになったり、誰かの何気ないひと言が啓示のような響きとなって心に届いたりする瞬間は確かにある。飲食をアートスペースでともにするうちに交わされる言葉は、誰かの状況に巻き込まれるかたちで自己のコンテクストを離れて異なる意味をまとう。意味は意図となって、欲望と行動を生み出す。実際のところアートスペースをつくるなかで身についたものといえば、電気工具を使ったDIYのテクニックやたくさんのスピーカーを接続するオーディオの知識、仕事や色恋の悩みを占うタロット、忘れかけていたJ-POPやジャズの音楽史、カクテルや料理、助成金を申請するための書式とレトリックなど、飲食をともにしえた他人の行動や欲望の一覧だ。そこでは、哲学や現代思想で繰り広げられる形而上学的な論争は力を失い、ほとんど冗談の域を出ないものとなる。
その一方でより批評的に考えると、アートスペースをつくるというプロセスに飲食という形式が組み込まれることで、形而上学的な論争の記憶は日常生活における個別具体的なものごとをめぐるやりとりのなかでアイロニーやユーモアのかたちをもって理解され、誤解され、嫌悪され、望むらくは共感される。アートスペースという空間の生産と日常実践のモードといった批評的なコンテクストは、展覧会をめぐる趣味や印象評、毎月支払われる1Rほどのテナント料や光熱費、運営と集客の仕組みといったアートマネジメント上のままならない課題へと接続される。アートと飲食の余白には、コンセプトが情動となり、肉となり、意味の体系を脱構築する詩的な契機も見られる。
批評のアートとして革命の最小回路を探す
今日、COVID-19による脅威の後、日常生活を取り囲む生体認証のセキュリティシステムやAIによって自動生成されるイメージとテクスト、リモートでの非接触型の対面やコミュニケーションを可能にする情報技術が加速する管理社会がやって来ている。人々の身体はデータの集合としての自己
の表象となり、データを生産し管理するロジックは分断と対立を扇動しながら社会を覆い、目の前にいる人は秒速のリズムで友、あるいは敵になる。人が自分自身の行動や関係性のネットワークとして存在する のであれば、人々は誰かと居合わせるときに起こる配慮(ケア)のうちに自己の行動と関係性を組み換えながら生存のアート(技法)を編み出す必要に迫られている。いまアートスペースをつくることは、批評の問題として考えると、アートを媒介として人々が居合わせ、他者の欲望と行動のうちから自己の主観性を変容させ、物語を歴史に対峙させ、管理社会における公共システムに抵抗し、生存のアート(技法)を獲得するための文化装置を生産することだ。自己変容と社会変革がつながるとき、もっとも小さなかたちでなされる革命の契機が生まれる。アートスペースにおいて人々がアートを媒介として出遭い、それぞれの物語と歴史の間で友と敵の関係性が組み換わり創造と運命がひとつとなるような瞬間に、アートは来たるべき世界のモニュメントとなる。単子現代の賭金は、批評の実践においてアートが新しいエコノミーとエコロジーへと生成し、変化し、モニュメントになるアートスペースをつくることとともにある。
まとめよう。自己変容と社会変革という革命の最小回路をアートスペースのなかでつくり、その革命のプロセスを人々の物語と歴史の間で記述することに批評の実践、そして彫琢すべき批評のアート(技術論)がある。単子現代というアートスペースで展示活動をしてきて、そう考えるようになった。実際のところ来てくれた人とそういった話をする機会はとても少ない。ただ少なくとも、アーティストの声を聞き、その声とともに作品を見ながら誰かに語りかけ、何かを聴くことはできるだろう。だからこそ今日、批評のアートを模索するアートスペースという場所をつくろうとすることが必要なのではないかとも考えるようになっている。
参考文献
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