フォーカス

「北」を背負った写真家

小原真史

2009年02月15日号

 青森県立美術館で開催中の小島一郎展には「北を撮る」という副題が付されている。本展は青森を主な被写体とし、39歳で夭逝した写真家の大規模な回顧展である。タイトルにある「北」がどの地点からのものであり、それがなにを意味していたのかということは、青森市出身である小島において、きわめて重要な問題だろう。なぜならそれは単に方角を意味するものではなく、小島一郎という写真家が抱え込まざるをえなかったなにものかであるのだから。

発見された「北国」の風景

 初期から没年にいたるまでの作品が詳細に辿られた本展において、節目節目で撮られた小島のポートレイトが句読点のように展示室を区切っており、1964年に亡くなるまでのおよそ10年という短い活動期間のなかで変容していった「北」の意味を問いかけていた。そのなかでとりわけ印象深いのは、東京行きを決意した小島が青森駅で見送られる際に撮られた記念写真である。微笑む友人たちに囲まれるその顔は上京後の生活を暗示するかのように険しく、東京での活動に行き詰まった数年後、同じその駅へと帰郷することになる。
 ローカリティという武器を手に中央(=東京)の写真界と対峙すべく、「津軽」「凍ばれる」といった「北国」の匂いを宿した写真を発表していった小島は、63年には石坂洋次郎、高木恭造との共著『津軽──詩・文・写真集』(新潮社)を刊行するなど、若くして高い評価を得ている。モノクロームの荒れた粒子と、覆い焼きによるハイコントラストな印画という表現技法に、当地の厳しい風土とそれに立ち向かう写真家の情感とが託されているように見える。土門拳が牽引したリアリズム運動の旋風が全国に吹き荒れるなか、「辺境」を背負わされた東北地方の寒村は多くの人々の格好の被写体となっていったが、小島生来のモダニズム的な感性と上述の特異な技法によって印画紙に焼きつけられた「北」の光景は、ストレートな題材主義のリアリズム写真とは一線を画してはいる。とはいえ、周囲から期待される「北の写真家」像との齟齬が、東京という地において小島に隘路を来たらす。名取洋之助という後見人を得た小島が東京を経由して内面化したものが「北国」としての津軽や下北の風景であったとすれば、豊かな陰影を湛えたその風土が、過度な複写と暗室技法によって白黒2階調の抽象世界へと自閉していくように見えるのも、外界に背を向けることによって発見された「北国」の風景においては必然であったのかもしれない。「北」という文字の成り立ちが背を向けた人の姿であるならば、東京での成功を夢見た小島が背を向けたのは北そのものであった。そして小島にとって羅針盤のごとき存在であった名取の死後、行き先を見失ったかのように青森へと帰郷する。
 本展の展示構成において特筆すべきは、小島の写真に付随する言葉や資料などを精妙に配置することで、彼の逡巡や決意、喜びといった感情の流れまでをも垣間見せることに成功している点だろう。小島一郎という「北」を背負った写真家に寄り添いつつ、しかし短い生涯のなかでの達成を謳うというよりは、むしろその蹉跌をも焦点化することによって、批評的距離を保っているといえる。

 
左:小島一郎《つがる市稲垣付近》 1960年、24.5*16.2cm、ゼラチン・シルバー・プリント、個人蔵
右:小島一郎《下北郡大間町》 1961年、24.2*16.7cm、ゼラチン・シルバー・プリント、個人蔵
ともに©小島弘子、写真提供=青森県立美術館

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