2022年12月01日号
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フォーカス

観ることのパフォーマンス──高嶺格論:横浜美術館「高嶺格:とおくてよくみえない」をとおして

沢山遼(美術批評)

2011年03月01日号

 美術館に入ると、意味のとれない高音の叫び声が聞こえる。ちょうどその声と同期するように、エントランスホールに掛けられた巨大な白い布の複数の箇所が凸面状に隆起している。その後で布の後ろ側に廻って確かめれば、さきほど発せられた「声」によって隆起したように見えた布の動きは、布の後ろに設置され、録音された声と同時に送風が行われる扇風機の風が舞い上げたものであることがわかる──。

至る所に見出される「演出」

 これが、横浜美術館で開催された高嶺格の個展「とおくてよくみえない」で観客がいちばん初めに眼にする光景である。布の遮蔽は声の正体を「見えない」ものにするが、仕掛けが明かされてしまえば、先ほどまで観者の心理に生起していたはずの布と声との疑似同期は、扇風機と声という二つの要素に分解されるだろう。つくりだされた錯覚は、その仕組みを知ることで失われる。おそらくここで起きているのは、声に肉体を与えることであり、隆起する布によって声を「パフォーム」させることだ。いわば声は布を通じて「演出」されているのである。
 それは、高嶺がかつてダムタイプのパフォーマーとして活動し、現在も舞台作品を「演出」していることともちろん無関係ではないだろう(美術館のHPでも高嶺は「現代美術家・演出家」として紹介されている)。おそらく私たちは「演出」を、彼が手がけた美術作品を含む、至るところに見出すことになるはずだ。


1──高嶺格「とおくてよくみえない」“Too Far To See”

「すべて」を見ることの禁止

 たとえば高嶺の作品には言葉を扱う一連の作品がある。そこでは、観者が言葉を読むこと、あるいは言葉そのものがパフォーマンスの対象になっているようにさえ感じられる。
 真っ暗な展示空間に土を敷き詰め、壁や床に廃材などを設置する《A Big Blow-job》(2004)、《Common Sense》(2004)、《鹿児島エスペラント》(2005)の3つのインスタレーションでは、コンピュータ制御されたプロジェクターがテキストを映像として映し出し、同時に土や板に型押しされた文字を照らし出す。文字は展示室内の至るところに置かれ、音楽に合わせてプロジェクターは縦横に動き、それらのテキストを繋いでゆく。暗闇が支配する展示室内で観者が文字を読むことは、この装置の補助なしになしえない。テキストの読解は、プロジェクターによって制御された私たちの「視覚」によって拘束されている。観者はそれを視線で追う=読むことによって、言葉の構造的な線形を、その時間の経過や連鎖を確認するだろう。インスタレーションの特異な環境のなかで、読むことは視線の動きそのものに置き換えられていく。言い換えれば、読むことを通じて、私たちは自らの視線を「駆動」させ続けていることに気付く。


2, 3──高嶺格《A Big Blow-job》2004年(2011年再制作)横浜美術館での展示風景、撮影=今井智己

 インタビューのなかで高嶺は、これらの作品が「全体というものに対する懐疑」を示すものだと語っている 。「すべて」を見つくすことへの抵抗は、暗闇の中での部分的な視覚として実体化され、観者はこの作者の信条につき従うように、全体を見ることをインスタレーションの中で禁止されることになる。
しかし、現代の観衆のいったい誰が、全体を見通すことができると素朴に考えているというのか。しかもここでは「全体」への懐疑が実際の──部分的にしか対象を観る−読むことができないという──視覚的光景に置き換えられてさえいるのだ。だが、その論理的な短絡と直接性こそが、高嶺の作品の輪郭を構成している。高嶺が実践するのは、私たちにはほとんど素朴にさえ映る作者の信条の、リテラルな肉体的実演なのである。

テキストの「ダンス」へと転移するパフォーマンス

 《ベイビー・インサドン》(2004)では同じようにテキストが表示される。多言語併記は鹿児島弁とエスペラント語で構成される《鹿児島エスペラント》によって別のかたちで展開されることになるが《ベイビー・インサドン》で使用されるのは、英語、韓国語、日本語の3つの言語である。この3か国語に堪能でなければ、観者はここでも全体を触知することができない。左から右に直線的に流れる英語、韓国語、日本語が印刷された長細いアクリル板が、この作品の支持体である。それを観ることは、それと並行して歩くことであり、テキストを読む=鑑賞する行為は、観者の動きとともに形成されていく。在日の伴侶との結婚式で撮影されたスナップ写真が時系列を展開するようにテキストと並走する。テキストには、「在日」に関して自問し、別種の歴史を背負った共同体の狭間で葛藤する高嶺の心情や結婚式の様子、自作のお伽噺などが書き連ねられている。
 途中、小さなモニターが支持体に嵌め込まれ、祝宴時に踊られた「ナジャ」というドラァグ・クイーンのダンスの映像を映し出している。観者がナジャの踊りの映像を通過した後、それまで直線で印刷されていた3か国語のテキストは突如湾曲し、音楽的なうねりを描くように交叉し始める。このとき高嶺のテキストには、芸(芸術・芸能)がいかなる共同体の境界さえも超えるものであることを、ナジャのパフォーマンスは示した、という趣旨のことが書かれている。つまりドラァグ・クイーンであるナジャは、アウトサイダーであり、トリックスターであるがゆえに、性差や共同体の間に位置し、それを超えるというのだ。私たちはここでも、パフォーマンスが共同体の差異を超えるという高嶺の素朴なまでの信仰に加担することはできない。だがここで注目すべきなのは、まっすぐな「線」としてそれぞれ平行して印刷されていた3つの言語が、ナジャの踊りの後で波打ち交叉し始める(!)という文字通りのリテラリズムなのだ。ここでは共同体や性差の差異を超えるナジャのパフォーマンスが、テキストの「ダンス」へと転移し、変容しているのである。

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