フォーカス
観ることのパフォーマンス──高嶺格論:横浜美術館「高嶺格:とおくてよくみえない」をとおして
沢山遼(美術批評)
2011年03月01日号
舞台装置の一部と化す観者の身体
高嶺の仕事に底流しているのは、パフォーマンス、あるいは「ダンス」を通じて他者との和解に至るという、それ自体がパフォーティブな行為であるように思われる。そうしたパフォーマンスの系列を、せんだいメディアテークで発表された《大きな停止》(2008)にも見出すことができるだろう。《大きな停止》では、「せんだい」の巨大な空間を埋めるために、一軒の廃屋の建材や家財道具が展示室内に運び込まれ、巨大なインスタレーションが形成された。廃材から組み立てられたコンストラクション、レリーフ、使い古された毛布をキャンバスに張った絵画のようなもの、壁に貼りつけられたぬいぐるみなどが配列され、ライトの点滅や笛や太鼓の音などによって、美術作品の通常の視覚的理解を超えて、観者は複数の感覚器官を動員して作品に臨むことになる。だが、ここでの仕掛けはそれだけではない。この作品では、すべての観客が盲目のツアーガイドに導かれて作品を鑑賞することを促される。盲目の人に従って作品を鑑賞する局面においては、観客もまた同じように目蓋を閉じ、作品を直に触れて鑑賞することが指示される。
したがってこの作品に認められるのは《A Big Blow-job》《Common Sense》《鹿児島エスペラント》の3作品に確認されたのと同様の、作品読解のために運用される観者の「行為」の系列なのだ。盲目のツアーガイドの指示に従うことは、盲目の人々と同じように行為することを強いられるということであり、それは観者の鑑賞体験を純粋な鑑賞とは別種の身体的パフォーマンスへと展開するだろう。そのとき私たちは盲目の人の身体を「模倣」することになる。ここでは、眼が見えないことの模倣を通じて、その身体へと接近することが試みられている。
高嶺の作品に見られるのは、いかなる他者との境界さえも突き崩す「パフォーマンス」の系列である。あらゆる差異や落差を乗り越えるためのパフォーマンスを通じて、観者の身体もまた舞台装置の一部と化し、作品とともに「演出」されることになる。そこで重視されるのは、高嶺自身と等距離にある、脆弱な身体こそが孕んでしまうような政治的な力学ではなかっただろうか。代表作《God Bless America》(2002)では、クレイアニメーションの経験さえなかった高嶺とパートナーが2トンの油粘土と格闘し、舞台作品では──かつてダムタイプのパフォーマーであった高嶺がそうであったように──舞台経験のない美大生が出演する。ゆえに、そこで扱われる身体のことごとくは素人のものであると同時に作家自身の姿を介在させてもいるだろう。素人は、内面化することのできない制度や技術への抵抗や齟齬を可視化させるのだ。
他者の身体への接近あるいはなること
同様に、自らの想像力の範囲を超えた場所にある他者の身体の演出不可能性は、未知の出来事として、演出の方法を更新する可能性を与えている。《木村さん》(1998)で知られる木村年男の介護経験を、高嶺は以下のような記述で振り返っている。
──ともすれば倦怠期の夫婦のように馴れ馴れしく自分の体とつき合っていた僕には、彼の持つ、自分とは明らかに異なる運動神経に対するイメージは刺激的だった。彼が右手で物をつかもうとする時、右足が激しく空中にはねあげられるのは何故か、奥歯で食べ物をすりつぶしている時、同時に目がさまよい始めるのは何を欲してのことなのか、僕はいちいち自分の体と重ね合わせる事をした。木村さんがゆっくりと顎を右上に傾ける。その時体の電気信号が、まず脳から首筋を伝って右肩へと降りていく。肩からひじの関節、手首へそろそろと伝わっていく。やがて信号は指先へ届き、人さし指がピンと硬く起き上がる。そして今度は体全体がウーンと折れ曲がるようにして、硬くなった人さし指はゆっくりと、テレビのリモコン目指して着地するのだ。息を飲む程の緊張感を伴った、見事なランディング。
高嶺は木村さんの身体の所作を注視し「いちいち自分の体と重ね合わせる事をした」と書く。木村さんの動きは、自らの身体に関する慣れ合いの理解を突き崩すものだった。そのため、ここでの木村さんの動きを見つめる高嶺の行為は《大きな停止》での観者の経験を想起させないだろうか。《大きな停止》では、盲目のツアーガイドと観客の、複数の身体が重ねあわされることが作品経験のフレームを形成していたからだ。身体障害者の性欲という題材を扱う映像作品《木村さん》の社会的・政治的なテーマに先行してあるのは、「僕」の範囲を超えて展開される木村さんの身体の経験を映像の被写体とするという目論見だった。そこから《木村さん》という社会的なテーマを持った作品が現れてきたのだとすれば、他者への接近という高嶺の方法の政治的な立場の内実は、他者の身体と自らのそれを同じフレームのもとに捉えること、そしてそのために「パフォーマンス」を駆動させることにあったはずである。
だが、すでに述べたように木村さんの身体、あるいは盲人の身体は演出の不可能性とともに、演出を更新する。彼らの身体はむしろ真摯な観察−模倣の対象となって作品内に構造化されているからだ。むしろ演出され、フレーミングされるのは、それを観る身体のほうだ。盲人になること、あるいは身体障害者になること。「観ること」を通じて、私たちは知らない間にそう演出されているのである。