フォーカス
アメリカンアートの終焉?──2011年、ニューヨークのアートシーン
市原研太郎(美術評論)
2011年03月15日号
現代アートのエスタブリッシュ化、その矛盾
さて、話をアートフェアに戻せば、今年NYで10のフェアが開催されている。そのすべてを回ることは到底不可能だが、そのなかのメインのThe Armory Show(Armoryと略記)とそれに連携したVoltaとThe Art Show(ADAA)、それに若手のギャラリーを中心に組織されたIndependent、そして映像のフェアMoving Imageを見ることができた。Armoryは、前述したように退潮傾向にあって、とくにリーマンショック以後は危機的状況にあると言ってよいだろう。それもあってか、NY市長のブルームバーグの入れ込みは相当なもので、直々に司会を買ってでてArmoryの記者会見を執り行なった。そこで、美術館、ギャラリー、フェアがネットワークをつくりNYのアートシーンを盛り立てていこうというメッセージが発せられたが、会見の後半、NY市の教育予算が削減されることへの批判的な質問が飛び、アートの世界で仕事をする人間にとっても、教育の重要性が再確認される一幕があった。
私が今回のフェアで気になるのは、当然、いまだに続く深刻な不況の影響がどう現われているかということである。それに関しては、招待客が集まるプレヴューに多くの来場者があり、明らかに二年前とは違って状況が好転していると感じられた。しかし、それが販売にどれだけ直結したか定かではない。また週末は、入口に長蛇の列ができるほどの盛況ぶりで、フェア人気が回復基調にあることは間違いないだろう(後日、主催者が出した報告書には、入場者数が新記録の65,000人、セールスもかなりの成績を収めたとあった)。日本からはSide 2とTaro Nasuの二つのギャラリーが出展したが、NYのフェアがこのまま復調していけば、今後日本から参加するギャラリーが多くなるだろうと予想される。
さて、私がフェアで気になったもう一点は、ここ数年、The Art Showという名のフェアにArmoryから移行するアメリカのギャラリーが増えてきていることである。じつはこのフェアは、NYでもっとも古く1960年代から始められ、その主催者(ADAA)は、古典や近代の作品をおもに扱うギャラリーの集まりである。歴史があって参加ギャラリーに高い信用度と権威が与えられるという意味で、エスタブリッシュされたこのフェアに、Armoryの常連組の大手ギャラリーが出展するようになった。ArmoryとThe Art Showの両方に参加するギャラリーもあるが、成績が芳しくない前者に見切りをつけ、後者の可能性に賭けるギャラリーが現われてきた。
この移行の背景には、The Art Showの側に、現代アートの新鮮な息吹を受け入れたいという意向があり、他方でArmoryの不成績に業を煮やした現代アートの有名ギャラリーが、富裕層の訪れるThe Art Showに鞍替えする試みがある。両者の利害が一致したかたちだが、Armoryからの移行組には販売促進の思惑が見え隠れする。The Art Showに入ることでギャラリーのエスタブリッシュ化を図り、ひいてはアーティストのエスタブリッシュ化と作品の価格の釣り上げを狙っているのだろう。おそらく、フェアとオークション(ササビーズやクリスティーズ)のあいだの価格の大きな差を縮めようとしているのではないか。
現代アートのエスタブリッシュ化は、今回が初めてではない。90年代後半にNYのギャラリーが、ソホーからチェルシーに移転してきたときに、それは起こった。移転先のチェルシーは、場所は辺鄙だが、ギャラリーとしての空間を十二分に確保して体裁を整えることができ、展示作品のサイズを大きくもできる。つまり地区の移転によって、ギャラリーの社会的ステータスが上がり、結果として作品のエスタブリッシュ化につながるというわけである。そしてThe Art Showに加わることが、もう一段上のステータスとエスタブリッシュメントを獲得する野心の現われだとすれば、現代アートに待っている未来とは、端的に富裕層の虚栄心を満足させる高尚な家具や玩具以外の何物でもなくなるだろう。
それが逆に幸いしてか、Armoryのほうは、The Art Showに回った大手ギャラリーの抜けた穴を、フェアの特集に招待された中南米のギャラリーや新進のギャラリーで埋め、久々に現代アートらしい多様な内容で、自由な会場の環境を作り出すことに成功した。大手ギャラリーのブースが醸す、いかにも現代アートといった堅苦しい代物(今回のフェアになかったわけではない)に食傷気味だった私にとって、2011年のArmoryは、どこかのICA(Institute of Contemporary Art)で鑑賞するグループ展のようにリラックスした雰囲気だったのである(残念ながら、日本で、ここまで大規模な展覧会を見ることはできない)。ところで、ステレオタイプ化した堅苦しい作品は、現代アートにとって語義矛盾(というのも、現代アートはそうしたタイプの表現を拒否することから始まるので)だが、現代アートが、いまやステレオタイプとして通用している事実こそ、ギャラリーとフェアが、作品のエスタブリッシュ化を目指すことと連動して生起しているものなのである。このように、現代アートをして自らに敵対する振舞いを採らせる推進力となっているのが、資本主義であることは言うまでもない。
他のフェアについては、若手のギャラリーを集めたIndependentと、映像のみのフェアMoving Imageが興味深かった。前者は、現代アートの冒険的・実験的な側面を売り物にし、後者は、映像という現代アートの有力な表現手段に特化してフェアを構成していたからである。しかしフェアは、基本的に作品=商品の売買を行なうマーケットであり、しかも、実質的には即売会なので、買いやすい=売れる作品(絵画や彫刻の古典的ジャンルで、作品のサイズが小さい)が並べられる。さらにまた、商品として際立つ特徴を備えた作品が選ばれる傾向が強い。その特徴とは、フェティシズムとスペクタクルである。それらが作品の成分に組み込まれているかぎり、表現に一定の足枷をはめることになる。それだけではない。それらの特徴が作品の剰余価値として認知され、究極的に資本の増殖に奉仕するのだ。まさにそれが、資本主義マーケットに放り込まれたアートの宿命であり、最終的に資本に回収されることは必然である。ここで確認すべき重要なことは、アートの資本主義への同一化のプロセスが、作品の商品的価値つまり価格に直接的に反映するということである。私は以前、このような表現の特殊な様態を“資本主義アート”と名づけたことがあった。