フォーカス
アメリカンアートの終焉?──2011年、ニューヨークのアートシーン
市原研太郎(美術評論)
2011年03月15日号
〈何でもよい〉の美学
その意味では、NYのコマーシャル・ギャラリーで開催される展覧会の陳列作品も、基本的に資本主義アートに分類される。しかし、ギャラリーに設置される作品は、フェアとは違ってもう少し自由度がある。そこにアーティスト、ときにはギャラリストの特別な意志の介入する余地があるのだ。チェルシーのギャラリーを見て回って、ある傾向の作品に出会った。しかも、ひとつだけでなく、いくつかのギャラリーで。主題やテーマは異なるものの、未来への方向を共有するような内容を帯びていたのである。それを一口で言えば、パラダイス、しかも見掛けはオプティミスティックなそれであった。具体的にアーティスト名あるいは展覧会タイトル(ギャラリー名)を挙げてみよう。“Entertainment”(Greene Naftali)、Geoffrey Farmer(Casey Kaplan)、Darren Bader(Andrew Kreps)。これらの展覧会に共通する性格は、パラダイスのもつ陽気な非政治性である。しかし、つぶさに観察すれば、そう単純ではないことがわかる。まずグループ展“Entertainment”は、各アーティストが戯れる娯楽の度を超えたなにものかにグロテスクな匂いがまといつくし、Farmerの彫刻は、諸要素のコミカルな組み合わせのなかに、トラウマに由来するペシミスティックな憂いが感知される。またBaderのパラダイスは、生きたヤギが2匹いる牧歌的な動物園に、素朴で明るいオブジェや写真やドローイングが配置されているのにもかかわらず、どこか上の空の虚ろな表情をしている。チェルシーのギャラリーでは、ほかにも同類の展覧会が開かれていて、それは以前に見られなかった傾向だが、こうしたパラダイス憧憬の底には、現在のアメリカ社会への幻滅が横たわっているのではないだろうか?
だが、NYのギャラリーで行なわれている展覧会のなかに、パラダイスをモティーフとして扱いながら、現代に対する消極的な反応ではないもっと積極的な意味と、同時に実現不可能な幻想ではない未来への肯定的な働きかけを含んでいるものがあった。それは、パラダイスというよりユートピアと呼ぶべきかもしれない。ただし、実現可能なユートピアであるが。アートにおいては、それは新しい美学の提唱につながる。それを、仮に〈何でもよい〉の美学と呼んでみたい。「何でもあり」ではない。無差別に選択されるのでも解釈されるのでもないからだ。〈何でもよい〉とは、特定のコンセプトを表現するのに使用される素材にかなり広い幅があり、その選択の幅こそが、主体に自由の感覚をもたらすのである。つまり、送り手(アーティスト)だけでなく、受け手(鑑賞者)に対しても、アーティストと同等の資格の、潜在的な創造の自由を授けるのだ。しかも、作者の意図(テーマ、コンセプト)を明確にするよう巧みに導きながら。それは、作品の理念の共有と創造の自由の享受を、ともに可能にする美学である。
今回のNY滞在の最初に見たDavid Hammons(L&M Arts)と、最後のDADARHEA(CANADA gallery)が、その代表例である。Hammonsは、アメリカの黒人アーティストとして長いキャリアをもっているが、新作は、前作(毛皮のコートとペイント)と同じく二つの要素からなる。これらの構成要素すなわち絵画とビニールシートや布地の二項対立が、はっきりした意味を孕むことは、誰にも理解されるだろう。しかし、彼の表現の真骨頂は、この構造の単純さにはない。彼の選んだ絵画とその上に掛けられる覆いが、〈何でもよい〉の公理を媒介して、鑑賞者の意識から「唯一性」の窮屈さを解除するスイッチとなるのである。この解放が、この作品におけるHammonsの真の意図である否定(とはいえ、穴だらけの汚れたシートはまありにもひ弱だが)を逆説的に喚起する。一方、アーティストのグループDADARHEAは、個別の作品としても、複数の作品で構成される展覧会としても、〈何でもよい〉を体現して、Hammonsよりラディカルに振舞っている。とはいえ、グループとしてのアイデンティティに寄与するカオスから外れることのない諸々の行動によって、一貫してオドロ可笑しい表現を送り出す。ちなみに、Josh Smith(Luhring Augustine)は、〈何でもよい〉ならぬ〈誰でもよい〉を、文字通り身をもって示している。Josh Smithとは、固有名詞ではなく代名詞であり、その空白に代入する誰もが、お立ち台に上がれるのだ。
〈何でもよい〉は、主体の解放の思想として銘記される。だが、主体は未来に自由を実現するために、現実の苦難を乗り越えなければならない。われわれが現在抱える重大な問題は、苛酷な自然災害から巧妙な社会的支配まで多岐にわたっている。それを乗り越えて自由の理念に到達することは、Yael Bartana(New Museumのグループ展)が、ポーランドにユダヤ人コミュニティを再構築しようと提言するのと同様に、ユートピアを建設することに等しい。MoMAで個展を行なったHenrik Olesenの作品は、ドゥルーズ=ガタリの「器官なき身体」をヒントに、両親の勢力圏から逃走する方途を手探りで模索して興味深いが、どうやら自我の解体へと到る悲劇的な道程を歩んでいるようだ。しかし、グッゲンハイム美術館で開催されている“Found in Translation”は、現実に“lost”ではなく“found”する突破口を見出そうとしているのではないか? そこには、厳しい現実に立ち向かうアーティストの真贄な姿がある。現実から無闇に逃避するのではなく、それに対峙する姿勢や方法を教示するのが、アートの役割である。
アメリカンアートは、本当に終焉したのだろうか? かつてウォーホルが見事に表現した〈物質〉と〈スペクタクル〉のアメリカンアートは消滅したのかもしれない。だが、NYのアートは今回も健在だった。間違いなく将来も健在だろう。これが、終焉の問いに対する私の答えである。