福島
木戸英行
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My Life Exhibition (Part 2): Tokyo Tatami Space Exhibition
アーティスト:折元立身、塩原康則、獅子倉シンジ、関口茂、イップ・ベネ・デ・ルービン、
エレン・ミュッフ他
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折元立身「Bread Man」1999
1月最後の土曜日、アーティスト折元立身の川崎の自宅で開催された1日だけのアート・イベントを訪れた。
折元立身は1946年生まれ。70年代初頭にニューヨークでフルクサスに参加し、以後主に海外を舞台に活躍しているパフォーマンス・アーティストである。近年はヨーロッパでの発表が多く、あちらでは広く知らた存在だが、残念ながら地元日本では十分に紹介されているとは言い難い。一貫してコミュニケーションをテーマに仕事をつづけており、世界各地に出かけ、通りすがりの人に特製のブレスレットをつけてもらう「Bracelet」や、やはり偶然出会った人たちの耳を引っぱる「Pull to Ear」といった、「Communication Art」と称するパフォーマンスを行なってきた。
得体の知れない東洋人から突然そんなことを要求されれば、当然のことながら、二つ返事ですぐに協力してくれる心の広い人や暇な人がそれほどいるはずもなく、たいていは端から相手にされないか、警戒されるか、悪くすると警察に通報されるといった憂き目に遭うだろうことは容易に想像がつく。それにもめげずパフォーマンスを遂行するには、アートとは何の関係もない彼らに、これがアートであることを説明して説得しなくてはならなず、そこに必然的にアートをめぐるコミュニケーションが成立していくわけである。
折元は近年、頭のまわりにパンをたくさん縛りつけた意味不明の出で立ちで、街頭、レストラン、病院などの公共の場所に出没し、道行く“普通の”人たちを楽しませたり困惑させたりという「パン人間(Bread Man)」と題したパフォーマンスを世界中で行なっている。また、“普通の”他人を巻き込む行為は最近では自らの身内にまで及び、「Art Mama」と称して、80歳になる自分の母親にはりぼての巨大な靴をはかせたり、首に古タイヤのチューブをぶらさげたりといった、ほとんど老人虐待とも取られかねない作品を発表している。
さて、「Tokyo Tatami Space Exhibition」と題された今回のイベントだが、折元が自宅を解放して、アーティスト仲間に声をかけ、それぞれ持ち寄った作品やパフォーマンスを、缶ビールを片手にバーベキューをつつきながら皆で楽しもうという趣向のものである。最近は各地で○○アート・フェスティバルとか、○○ビエンナーレといったイベント盛りだが、こちらは、内輪のホーム・パーティーがそのままアート・イベントになったようなもので、ミニマムなアート・フェスティバルといったところか。
しかしながら、参加アーティストは、日本、ドイツ、オランダ、イギリス、アメリカと国際色豊かな総勢29名。年代も美大生から折元と同世代の作家まで見事に雑多なメンバーである。そこに彼らの友人知人や、面白そうだからやって来たというぼくのような観客まで加わって、トータル40人に近い人たちが、川崎の下町の何の変哲もない住宅地に建つ、これまた何の変哲もない折元邸に集まったものだから、日頃は平穏であろう折元邸もほとんど立錐の余地もないほどの混乱ぶりだった。
参加アーティストたちの作品のほうは、展覧会だからと言ってとりたてて片付けもされず、おそらくは折元の家族が普段生活しているそのままの住居の中に、めいめいが勝手に“設置”するというシステム。実際当日は、庭先から、玄関、居間、台所、トイレ、風呂にいたるまであらゆるところに、作品が飾られ、ドローイングの横に折元家の家族写真や親戚の子供が描いた絵が貼られたままになっていたり、掃除用の青いプラスチックのバケツが戸棚に置き忘れていると思ったらそれが作品だったり、といった具合で、正直に言って何がなんだかわからない状況だった。それでも、関口茂の、銃を背負った迷彩模様の等身大のウサギのぬいぐるみの作品や、「caution」と印刷された例の黄色の立入り禁止サインのテープを家中に張り巡らしたイップ・ベネ・デ・ルービンのパフォーマンスなどは印象的だった。余談だが、彼はこのパフォーマンスをなんとベルリンの街中でゲリラ的に敢行し検挙された経験をもつそうである。当日は、そのときの写真も展示されていたが、突然立ち往生をくらった通行人たちの顔が一様に困惑しながらも、どこかに楽しそうな表情を浮かべていたのが記憶に残った。
折元立身「Art Mama」1997
ところで当日の中心人物は、何と言っても折元立身本人だったと言わなければならないだろう。彼自身もパン人間のパフォーマンスを演じてくれたが、それよりも、「Art Mama」ならぬ「Art Papa」といったリーダーシップで、始終大声を張り上げて作家の紹介をしたり、手伝いの美大生たちに、飲み物の用意を指示したりといった様子を見ていると、このイベント自体が彼の「Communication Art」だったことがよくわかる。
これに先立って折元の友人が経営する川崎の蕎麦屋で行なわれた「パン人間」パフォーマンスの展評がAsahi Evening Newsに掲載されていたが、その中で彼はインタビューに答えて「パン人間は普通の人々から反応を引き出す一つの手法です。ぼくが顔にパンをくくりつけて、それをアートと呼んでいるのを見て、どうして?と尋ねてくる人がいれば、ぼくはそれに関心があるわけです。でも、日本では何に対しても誰もけっして、なぜ?とは尋ねない‥‥」と述べている。実際のところ、美術館やギャラリーでは、業界人であればあるほど、作品や作家を前に「なぜこれがアートなのか?」と言う言葉を無意識に回避し、そうすることが現代美術というシステムを保証しているようにすら感じることがある。
これに対して、今回のイベントは、折元のパフォーマンスのつねである、普通の人の日常にちょっとした非日常的体験を持ち込むという行為とはまったく逆に、ギャラリーや美術館というアートにとっての“日常”から当のアートを引き剥がし、われわれにとっての日常であり、アートにとっては完全な非日常である、川崎は下町の民家の狭苦しい6畳間に持ち込むという構図をもっていた。ここで「なぜ?」という問いを互いに発し、コミュニケーションすることを期待されていたのは、普通の人たちではなく、参加アーティストをはじめ、当日集まったアート関係者だったわけである。などと言ったら、折元は「たまたま外国から友達がいっぱい来日していたし、皆で楽しもうと思って集まっただけだよ」と笑うかもしれないが‥‥。
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会場:Orimoto House(川崎・折元立身氏宅)
日時:2000年1月29日(土)15:00〜19:00
入場料:1,500円(ドリンク・フード付)
主催:折元立身
参加アーティスト:Tatsumi ORIMOTO/Yasunori SHIOBARA/Midori MITAMURA/Ellen MUCK/Norbert GORTZ
Frank FUHRMANN/Shigeru SEKIGUCHI/Kengo NAKAMURA/Shinji SHISHIKURA
Naoko SAKAMOTO/
Laurent BICHAUD/Masahiro SUDA/Noritoshi MOTODA/Akio MITSUISHI/Tadayuki SHIMADA/
Hirofumi TAKEMOTO/Nahoko KOIDE/Michael RHYS/Cesar CORNEJO/Yasunori TANIOKA/
Makoto KOBAYASHI/Takami ABE/Tsunetaka KOMATSU/Hirokazu NAKAJIMA/Chieko ICHINOSE/
Ruth A. LONSDALE/Kin C. LOK/Iepe B.T. RUBINGH/Hideo CHITA
学芸員レポート[CCGA現代グラフィックアートセンター]
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一昨日のことだが、アメリカ現代版画を代表する版画工房であるタイラーグラフィックスが年内にその活動を停止する予定という、非常にショッキングな知らせがアメリカから届いた。ご存知の方もいるかもしれないが、ぼくの勤めるCCGA現代グラフィックアートセンターは、タイラーグラフィックスが1974年の設立以来、さまざまなアーティストとのコラボレーションを通じて制作してきた版画とその関連資料をアーカイブすることを目的の一つに設立された施設である。現在その作品数だけでも930点以上にのぼり、タイラーグラフィックスの公式なアーカイブ・コレクションとして、今後も新作が出版されるたびに同工房から供給されることになっていた。
版画の世界におけるこうしたアーカイブは、アメリカでは主要な美術館と版画工房の間でよく行なわれていることである。たとえば、ニューヨーク近代美術館は、タイラーグラフィックスと双璧をなす工房であるULAE(ユニバーサル・リミテッド・アート・エディションズ)のアーカイブと、ULAEの創業者の名前を冠した版画専門のギャラリーをもっているし、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、ロサンゼルスにある有名な版画工房、ジェミナイG.E.L.(グラフィック・エディションズ・リミテッド)のアーカイブを所蔵している。タイラーグラフィックスも、ミネアポリスのウォーカー・アート・センターにアーカイブ・コレクションがあるが、CCGAはそのシステムを日本に実現した初の試みだったわけである。
アメリカの主要な美術館が版画工房のアーカイブをもつという背景には、かの地における版画芸術への関心の深さがある。というより、アメリカ現代美術を語る上で、版画とそれを推進してきた版画工房の存在は避けて通れない問題なのである。これは、戦後のアメリカ美術のスーパー・スターたちを思い出してみれば納得できることである。
ジャスパー・ジョーンズ
、
ロバート・ラウシェンバーグ
、
アンディ・ウォーホル
は、当館は現代美術をコレクションしています、と標榜したい美術館にとってほとんど三種の神器に近い存在だが、彼らは皆、版画家と呼んでもいいほど版画を数多く制作したか、あるいは版画技法を応用した絵画作品を制作しており、彼らの代表作を挙げるときには必ず何点かは版画作品が含まれてくるのである。
彼らがもっとも精力的に版画に取り組んだのは、1960年代から70年代にかけてのことで、この時期のことを一般的にはプリント・リバイバル(版画復興)と呼ぶ。当時、彼ら以外にもほとんどの作家が版画制作に手を染め、版画が時代を象徴するメディアだったのである。少し強引な比較かもしれないが、ちょうど今日におけるインスタレーションのように。そして、彼らを版画制作に駆り立てたのが、先にあげたULAE、ジェミナイG.E.L.、などの版画工房の存在であり、その中心人物の一人がジェミナイを設立し、後にタイラーグラフィックスを立ち上げたプリンター、ケネス・タイラーだった。
その彼が、1960年代初頭以来、40年近く続けてきた版画工房生活に幕を引くかもしれないと言う。理由についてまだ詳細に聞いているわけではないが、いずれにせよ、ぼく個人にとっては、一つの時代が終わったということをあらためて認識させる出来事である。ここで言う終わりとは、版画の終焉でもあるし、アメリカ美術そのものの終焉でもある。もっとも、それが本当かどうかは別にして、東西冷戦が終結し多文化主義の時代へと突入した90年代以降、アメリカ美術は衰退したと言われつづけてきたわけで、今ごろそれを痛感するのは遅過ぎるかもしれないが。
個人的な話になるが、ぼくといわゆる現代美術(最近ではこの言葉も括弧付でないと書けないようになってきたな……)との出会いも、20数年前、高校生の頃愛読していた『美術手帖』でステラやジョーンズが作り出す版画作品に惹かれたことに端を発していたように思う。そして、何もぼくに限ったことではなく、アメリカ現代美術はぼくと同世代かそれより上の世代の人たちにとって、良きにつけ悪しきにつけ、見倣ったり、批判したり、必ず通過しなければいけない存在だったはずである。しかし、いまの若いアーティストたちにとってアメリカ美術は、現代美術を志す者にとってかつてのような通過儀礼とはもはや言えないだろうし、これからはますますそうなって行くだろう。
同時代のアートに関わって行くことを仕事としている身であるから、いつまでも青春の思い出に浸っているわけには行かないし、もちろんのこと、アメリカ美術にせよ版画にせよ、今後も優れた作品が生み出されていくだろうことは言うまでもないことである。と言いながらも、当分は放心状態を免れそうもない。
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