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ミュージアム・シティ・プロジェクト1999
「ヴォッヘンクラウズール:アートによる提案と実践」
〜公開討論会(パブリックディスカッション)
〜「ヴォッヘンクラウズールが提案するアートと社会の新しい関係」 |
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旧御供所小学校(福岡市博多区)のなかのW.K.事務局。コミュニケーションを重視するW.K.の活動において、デスクワークの比重は大きい。
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昨年11月から2カ月間福岡に滞在し活動を行った、ヴォッヘンクラウズール(以下ここではW.K.と略)というウィーンのアーティスト・グループについて、資料をもとにした紹介や福岡プロジェクトにいたる経緯などはすでに本誌12月号に掲載したので、今回は福岡プロジェクトの実際をレポートしたい。が、一般的な説明から一歩進んで、W.K.の実際について語ることは思った以上に難しい。
「モノ」としての作品をつくらないアートの創造性を想像し、実感することの難しさに要因のひとつはある。地域に住んでいる人たちと話し合うなかから、問題を「リサーチ」すると同時に解決の具体的な「提案」を行い、行政や企業にも働きかけながら「実践」を行う、というように彼らのプロジェクトがコミュニケーションを通じて、長期間継続的に行われるため、外部から部分を眺めただけではわかりにくいのだ。
特に福岡プロジェクトの場合、具体的な「提案」の段階でウィーン側W.K.の滞在予定が終了し、現在ミュージアム・シティ・プロジェクト事務局が窓口となって福岡プロジェクトの実践に手をつけ始めたばかりといった現状からいっても、まだ正直いってよくわからない。
となると現段階では、極めて個人的な私のW.K.体験を語ってみることでレポートとするしかない。体験に個人差、温度差がでることは否めないが、コミュニケーションを重視する彼らの活動を理解するために、まず自分がW.K.とのコミュニケーションの直中に立つことから始めることは的外れではないはずだ。
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パブリックディスカッションのパネリストら
右からカール・セイリンガー、ウルリーケ・コーネン=ツルツァー
ひとりおいてヴォルフガング・ツィングル、パスカル・ジャネー
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右から藤浩志、桐野愛子、桐野祐子、長田謙一、川浪千鶴
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いくつか行われた公開イベントのうち、私にとって最も重要なW.K.体験となったのが1月9日の公開討論会だった。
キリスト教思想を背景としたボランティア精神やモラルに則ったように見える活動内容、既存の市民運動との差異、異文化間のコミュニケーションの問題などなど、昨年11月の段階から私もW.K.に対する多くの疑問をもっている。が、「わからない」人間代表として司会を務めた成果(?)か、資料ではなく彼らの言動に直に触れた結果、今後プロセスをしっかり見続けようという気持ちが強くなったことは事実だ。性急に結論をだすのではなく、問題意識を持ちながら、時間をかけて福岡プロジェクトの「その後」を見守るなかから理解してみたいという心持ちに変化したと感じている。
さて、討論会は3部構成で行われた。第1部にウィーン側W.K.による過去のプロジェクト紹介、第2部にゲスト講師・千葉大学の長田謙一氏による講演「日本はどのようにしてWOCHEN KLAUSURと出会うか」、第3部に日本側W.K.も加わった福岡でのプロジェクトの報告が行われ、各部の終わりにそれぞれ質疑応答の時間が設けられた。
第1部では、ウィーン側W.K.の、明晰で、ていねいで、熱心な解説や応答のしかたから、W.K.という集団の特質が窺われたことが最も印象的だった。プロジェクトごとに流動的なメンバーで構成されるとはいえ、実際W.K.にはキャリアの長いコアメンバーが存在しており、最年長のヴォルフガング氏が今回の実質的なリーダーである。しかし、過去のプロジェクトを説明する際も、質問に答える際も、決して彼ひとりが独占的に話すことはない。バトンリレーのように次々にマイクを渡しながら、4人で役割分担しながら、コンセプトを平易な表現で、むらなく、ブレなく伝える努力を行う。そうした言動は、理性的だが顔の見えないモノトーンな印象を与える。W.K.は個々のアーティストが集ったグループというより機能体といったほうが近い感がある。しかし、不思議と紋切り型的なクールさはなく、そうすることで反対に個々のメンバーの人間味が浮かび上がってくるようにも感じられた。
また、「W.K.の活動は本当にアートなのか」「活動そのものをアートというならその評価は誰がどうやって行うのか」「社会へ介入する方法がアートでなくてはならない理由は何か」などなど、どこでも、いつでも、誰からも、W.K.に出される質問は、討論会はもちろんどの交流イベントにおいても繰り返されたが、こうした問いに繰り返し答え続け、どの質問にも常に真剣に向き合うW.K.の態度からも、すべてはコミュニケーションに始まるといった彼らの基本姿勢を窺うことはできる。
第1部は終わったが、とはいっても腑に落ちないと会場の気分がざわついたなかで、第2部の講演会「日本はどのようにしてWOCHEN KLAUSURと出会うか」は行われた。そして長田氏の卓抜なW.K.分析とレトリックは、新たな言説を必要としていた人々の胸に見事な一打を返してくれたといえる。
W.K.を福岡に招く最初のきっかけをつくった長田氏は、まさに「W.K.を私たちはどのように受け止めるか」という問題に自らの経験を通じたひとつの答えを示してくれた。
ドイツやオーストリアにおけるアートと社会の関係の特質を整理したうえで、アーティストが芸術の内側にとどまるのではなく、社会的現実のただなかで働く「調停者(Moderater)」となって、「現実に何らかの変更を、小さくとも実際に加えうることにおいてこそ芸術たりえる」と、まずアートの機能面からW.K.の立脚点を示した。コミュニケーションを重ねることで浮かび上がる意見の相違や対立の間に「通路」となる何かを共同でつくりだすこと、これがW.K.のプロジェクトの目的であり、「コミュニケーションの中に生きることで、何か本当の自分らしい生き方を始めること」をW.K.は呼びかけていると続けた。市民運動と見まがうようなW.K.の活動がなぜアートなのかという点について、「W.K.が取り組んでいるような活動は、それがW.K.のものでなくともそれ自体アートなのだとW.K.が示した」ことと、「このような活動がアートなのだということを示したことにおいてこそ、W.K.は自覚的なアートの担い手なのだ」と明言。講演直後の会場の静けさは、会場のそれぞれが自分自身の問題として、アートの可能性について考え始めた瞬間でもあっただろう。
講演に続いて、第3部として、福岡プロジェクトで最終的に選ばれた「プロジェクト学習の支援団体に関する提案」について概説が行われた。学校の授業が地域や社会などと直接つながる『プロジェクト学習』とは、生徒が授業を自分の将来や生き方に関わる重要なものと感じることを目標とした創造的な体験学習を指している。福岡プロジェクトでは、プロジェクト学習を地域のプロフェッショナルな人たちと一緒に行うための一種のコーディネイト組織(この組織は仮にエイジェンシーと呼ばれている)の設立も併せて提案している。
アートが学校や学校を取り巻く地域社会と新たな関係を生みだし、そしてそこに生じる変化をどのようにサポートしていけるか、こうしたアートと教育の結びつきに、これからますます大きな関心と期待が寄せられることは想像に難くない。
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福岡市立舞鶴小学校の「新聞プロジェクト」ガイダンス授業
(先生は西日本新聞社文化部の嶋村さん)
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具体的には、現在福岡県内の3つの小学校で「総合的な学習の時間」の一環として「プロジェクト授業」の準備が進行している。西日本新聞社の協力を得て自分たちの新聞をつくるプロジェクト、九州大学の社会学の研究室チームとともにポスターやマップをつくって地域の活性化を図る商店街プロジェクト、建築の専門家たちと一緒に自分たちの家や基地をつくるプロジェクト。それぞれの学校でガイダンス授業が終わり、新学期からの実践を待っているところだという。
エイジェンシーについては、まずは興味をもつ人と出会い、これから少しずつ組織化(NPO的な)していければと、ミュージアム・シティ・プロジェクト運営委員長の山野真悟氏や藤浩志氏は語っている。今後はW.K.の考えをそのまま引き継ぐのではなく、新しい人たちの新しい考えや意見をふまえながら構築していきたいとのこと。
「大事なのは誰がやるかではなくて、何を行うかだ」とヴォルフガング氏。地域の人の問題意識に支えられ、実践、展開していくW.K.のプロジェクトに「終了」はない。プロジェクトの成果はもちろん地域のものだが、その後に生じるトラブルやプロジェクトの停滞については、W.K.は責任をもち続けると彼は生真面目につけ加えた。しかし言うだけはたやすいその言葉を、彼らは93年以降実行し続けている! 過去の10のプロジェクトすべてがいまなお継続している事実こそが、彼らの成果であり、プライドなのだと感じさせられた。W.K.のプロジェクトの評価は、結果として個人評価につきるのではないかとも思っている。取りあげる問題の定義を深め、共有しうる具体的な提案をしたあとは、W.K.体験をした人々それぞれの個人仕様として、プロジェクトはW.K.効果とでもいうべき展開や拡散をし、継続していくのではないだろうか。今回の滞在も2ヶ月という短さだったが、短期滞在で何ができるのかという問いに、よそ者だからこそ、固有のしがらみやヒエラルキーにとらわれずに問題を見つけ行動できると彼らが答えるのも、こうしたコミュニケーションの可能性をめぐる彼ら独特の意識に裏付けされているようだ。
全体で3時間半にもおよぶ長丁場の討論会だったが、充実した内容で長さを感じなかったという感想も多かった。討論会の成功は、壇上からの解説や講演に対して、また会場からの質問へのW.K.の応答に対して、参加者の胸に新たな疑問や問題意識、好奇心や期待などが次々と浮かび上がり、私を含めて、参加者のコミュニケーション欲がかき立てられたことに尽きるといえるだろう。そういう意味で、この討論会もW.K.の福岡プロジェクトの一環だったのだ。
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