日下部の作品の核になっているのは「観察眼」だと思う。彼のカメラ好きは界隈では有名だが、彼にとってカメラは、いわば世界をみるためのフィルターなのだろう。ただし、あの路上観察とはちょっと違う。後者は人の営み(=社会)に対して斜に構えたようなアプローチであるのに対して、日下部の場合は思考によって分節化される以前の、ことばにならない肌触りのようなものへの指向性が、より強いように思う。作品として現れるときには相当なバリエーションをみせるものの、一貫性を失わないのは根底にそういう姿勢があるからだろう。今回の新作の多くは、拾ってきた廃品によるレディ・メイドである。中でも目を引くのは、正面にかけられた「住」の文字である。想像通り、線路沿いの不動産の看板の一部らしい。荒い筆触で塗られた青い地色が妙にペインティングっぽくて、どこまでが手技によるものか勘ぐってしまうのだが、実は表面の汚れのお掃除だけが、彼の仕事だったらしい。
会期が重なって準備期間がなく、楽な方法を考えた、と日下部は苦笑していたが、なかなかどうして、ウイットに飛んだ美しい作品なのである。官製はがきに鉛筆でメッセージを書き、10名の知人宛に投函する。受取人は全部消しゴムで消して返事を書く。このようにして1枚のはがきを再利用しながら10回通信し、最後に消した状態が作品として展示されている。
数年前、船井裕はコラージュ状にさまざまな種類の紙を貼り込んでおいて、引き剥していく仕事を発表していた。面白いのは、それが柳生健吾との共同作業として行われていた点である。個としての作家性への問い掛けを内包した、文字通り消去法の作業であり、新たな展開に弾みがついたかにみえたのだが、残念ながらその後体調が思わしくなく、ほとんど発表していない。今回はそのタイプではなく、ドローイングを転写したリトのシリーズで、1点だけではあるが、新作がみれたのが本当にうれしかった。
吉仲の水彩もまた、足し算よりもむしろ引き算の美しさという点で響きあっていた。船井のリトにも共通性があると思うが、実体を創りだそうというよりは、残り香を捕まえることで本体の存在感を暗示する、というような方向性である。
本展には直接無関係だが、船井は具体の創立に参加したすぐ後、吉原英雄とともに訳あって離脱、デモクラートへと合流した経歴を持つ。非常に知的で、恐ろしく眼の利く作家でもある(そのため寡作なのだが)。また優れた教育者でもあり、大阪芸大の彼の教室からは多くの優れた作家が巣立っている。「こいつは骨があるナ」と思ったら実は船井門下生だったという場面が何度もあった。この展覧会の仕掛人は吉仲正直だと聞いた。その真意がどこにあるのか知らないが、一日も早く快復して、旺盛に活動して欲しいという願いはおそらく共通しているのだろう。