「あとりえ はらっぱ」は、主として幼児から小学生を対象として、自閉症などの障害をもつ生徒さんも通常の活動の中に迎え入れている造型教室。
この教室では基本的に全員が同じ課題に取り組むことはなく、各々がやりたいように制作を行なう。そして『あくまでお手伝い』を自認する教室主宰のふじわらやすえさんは、それぞれの生徒さん達に1対1で向かい合いながら、その様子を丹念に見つめ、巧みに相槌を打ったりヒントを与えながら生徒さん達の資質を上手に引き出していく。つまり、この教室では上手に絵を描く技術指導はほとんどなし。彼女の願うのは、表現することにより、自分自身のものの見方、とらえ方、ひいては自分自身を見出すこと。
もうひとつこの教室の特徴は、表現することに自己充足せず、常にそれが示されるべき相手が想定されること。彼女の言い方を借りれば『自分が描く(表現する)ことで、「誰に」「何を」伝えたいのか?』という問いかけと、『その表現で誰かをハッピーな気持ちにさせ』ようとする暖かな気持ちが制作の傍らを伴走している。
全国各地で彼女のような姿勢をもった美術教育者は多数いるだろう。もっとも昨年そして今年と彼女が行なった『IN SIDE OUT』(展示:2000年2月1日〜6日。インターネット上のプロジェクトは継続中)、『一週間限定! まいにち はらっぱ』(2001年2月20日〜25日)の二つの企画は、彼女が作る創造の場がより広く世の中と結びつきながら、改めて美術教育、障害者と美術、そしてワークショップ等について考えさせられる契機となるので、ご紹介かたがた幾つかのことを書き留めておきたい。まず『IN SIDE OUT』。
このプロジェクトは、教室に通う生徒さんと、教室外から募った計19名の提供者から寄せられた3または5枚組の平面作品が基点となる。それらを展覧会として公開するが、来場者には、ただそれを見るだけではなく、その場で各々の作品にテキストを付けてゆくことをうながす。また同様の試みをWEBサイトでも行ない、テキストの受付は現在も継続している。
このプロジェクトのふたつの特徴を挙げよう。
ひとつは所与の図像に来場者がテキストを付すことで、表現者と鑑賞者の一方通行を双方向にし、いずれもが創造行為に直接的に携わるようにしたこと。そしてテキストが残されることで、次なる来場者にとっては、所与の表現物が図像+テキスト+テキスト……と、増殖していく仕組みが成り立つことである。
ふたつめが、平面作品提供者の構成。この19名は、年齢は小学校低学年から50才過まで、性差も男女双方、いわゆる障害の有無もそれぞれ、中にはアーティストも数人いるから、素人・プロの境界も無し。民族やら国境の壁は越えられなかったが、彼女はここも越えてみたいと思っていた。
このように様々なタイプの提供者を募ることで、障害の有無、性差、プロアマと言った各々の境界軸の効力は弱まることになる。その上で、あえてそうした図像提供者のキャラクターや構成を明かさずに、「あなたのお話をください」というキャッチコピーのもと、表現を発信する人、受信する人の一方通行の関係を双方向に作り変える点を前面に出すことで、来場者がより能動的に基点となる図像に関わるようにしてあるのである。
企画が、このような姿になるためには、練りこむためのかなりの思考時間が費やされ、プランも幾度となく変更された。もっとも、以下の基本的なコンセプトは常に一貫し、実際のパフォーマンスからも強く主張されている。
生徒の作品を他者へと開いて行くことは教室の基本方針であるし、なにより彼女自身が生徒の描く作品のファンであり、その魅力を多くの人にも見てもらいたいと願っている。しかしただ教室の絵画展というだけでは、その所属者と縁者だけが見に来るだけで終わってしまう。一方で障害を持った児童の絵画展とすれば現在の状況なら耳目を集め観客は増えるだろうが、そうした名のもとに作品を展観すれば、作品を見る眼には初めから何らかのバイアスがかかってしまう。ハンデを持つ児童の絵画展と宣言すれば、ハンデを持つ側が自らハンデを持つ人間と持たない人間との間に、バリアーを作ってしまうことになるのではないか?
この『IN SIDE OUT』の試みにおいて、インターネットの活用を含め、彼女が示した基本的な道具立ては、さらに大きな展開を予感させる。実際に会場には熱心に作品を見たり、テキストを寄せる人の姿が絶えなかった。現在、WEBサイトに掲載されているテキストの合計は200篇を超えている。
もっとも走り始めたばかりの企画ゆえコンセプトの具現化という点ではまだ粗削りなものである。例えば来場者のテキストの提示が展覧会場では難しかったこと、またいわゆるアーティストの作品はパネル貼、マット装など作品のプレゼンテーションの巧みさゆえに、他の作品と同列にイメージだけが存在するように提示するのが難しかったことなど。
こうした点を自覚したところから、本年2月の『一週間限定!まいにち はらっぱ』が成立している。
このプロジェクトでは、日頃の「あとりえ はらっぱ」が、誰でも自由に参加できる場として開放される。
最初に展示されているのは教室の生徒作品のみ。そして来場者は大量多種の紙と幾つかの画材が用意されたコーナーで、所与の展示物へのリアクションとして新たな作品を作れる仕組みである。もちろん毎日彼女が常駐して、作品制作に没頭する来場者に丁寧に声をかけるから、まさに「あとりえ はらっぱ」の成果物と、通常のソフトとが、一般に開かれて提供されるわけである。さらに来場者の制作品は、そのまま展示に加えられていく。
こうしてみると『IN SIDE OUT』において、様々な境界・差別を俎上に乗せようとした試みは整理縮小されたが、テキストを書く代わりに、何でも描き作り、それを新たな展示物にしてしまう回路が開かれたことで、より多くの方が、創造の現場に立ち入ることを可能にしている。
実際、会場は日増しに様相を変え、また家族連れが多い中で、子供のみならず、両親揃って(特に父親が!)、紙を選び、クレパスを握って嬉々として工作にいそしむ姿が常に見られた。こうして先鋭的なコンセプトが、現場への落しこみへの反省に基づき修正されることで、よりたやすく表現者と鑑賞者の垣根を取り払い、創造の楽しさと、その大切さ、それが開く可能性を実感できる場(=はらっぱ)が実現されたのである。
もっとも周到な彼女は、この二つのプロジェクトを、振幅の双方のテストケースととらえ、さらなら創造の場のクオリティーアップを目指すことだろう。いずれにせよ、すでに多くの人の気持ちに新たな種を巻くことに成功しながら、なおもそれを助走として、より完成度が高まることを予感させる二つのプロジェクトである。
さて、写真を見ていただければお分かりいただけるが、この二つのイベントの集客力は目を見張るものがあった。また彼女が「あとりえ はらっぱ」の活動を拡張して、より地域社会と切り結んだプロジェクト『てのひら こいのぼり』(2000年5月・岡山市福南中)では、鯉の鱗に見立てて自身の手形を無地の鯉幟に押し付け、参加者の記憶をひとつに束ねた鯉幟を作るという企画に、なんと千人以上!の参加者をみた。
こうした状況の成った要因は、ひとつにはプロジェクトの仕掛けそのものが実にシンプルで参加がしやすかったこと。そして私なりに思うに、3児の母である彼女が、地域の未就学児童が集う親子クラブ(地域によっては呼び名も組織化も違うだろうが、岡山市では各地域むらなく組織されている)以来、丁寧に培ってきた人の繋がりが一度スイッチを入れれば、そうして起動してしまうことだと思う。
この親子クラブ、そして公民館という場についても触れておきたい。
私自身、現在4歳と2歳の子を持ち、妻が親子クラブの役員を務めている。
親子クラブにおいては、5〜6名の役員が年間のスケジュールをこまめに連絡を取り合いながら企画立案し、毎週何らかのイベントを実施している。その様を見ると、実に巧みにそれぞれがもつ長所――ピアノが弾ける、絵が描ける、外出プランならお任せ、必要資材の調達etc.――を引き出しあいながらプログラムが組まれていく。さながら役員達のワークショップが通年で実践されているようなものだ。また前年から引き継がれたプログラムにも良く出来ているものがあり、それがその年の役員の特徴に合わせてアレンジされたりする。それに各プログラムが、学習指導要領などのルールがあったり、何らかの評価にさらされることもないから(唯一の評価は参加者親子の満足度)、実に伸び伸びと(裏では役員達のノウハウが総動員されて)、とくに美術のプロがいるわけでもないのに良質なワークショッププログラムが提供されている。
提供されるプログラムの成立構造を見れば、それは公民館でも近いのではないだろうか?
市街地中央部の大型公民館では、職員が時には外部講師を招きながら主体的に企画立案することが多いが、周辺部の小型の館では、まさにその地域にいる人材に依拠し、公民館はそうした人材を繋ぎ、その活力を引き出すソフトとして機能するほうが活発な活動が展開できるようだ。そうした場ではあちらの講座では受講者だった人が、こちらの講座では講師になるようなこともあり、そして、そうした場での集客力は、こんなところにこんなに人が集まっていたのかと驚くことが多い。
こうした親子クラブや公民館のように、その枠組を活用して、その構成要員の有する資源が健在化する場においては、ふじわらさんのような個性が数年に一度でも充填されれば、そこは実に充実した創造の場と変化するだろう。実際、彼女はそれをしてきたから、多くの信頼を培い、ひとたび彼女自身が主体と成る仕掛けをすれば、先述のような結果が生み出されることとなる。
一方で見方を変えれば、アートというものが、人を繋ぎ人を生かすひとつの媒体としての機能を果たせるのならば、学校、美術館とともに、こうした場の可能性をもう少し考えてみても良いのではないだろうか。あるいは、すでにこうした場で実践されている様々なワークショッププログラムを丁寧に拾い上げることができれば、それは学校や美術館で現在実施されているプログラムにも有益な参照例となるのではないだろうか。
と言う事で、最近の私は暇なお父さんと思われながらも、母子クラブに出かけ、公民館のみなさんと仲良く付き合っている。