四谷シモンの人形の多くは性器や陰毛を露わにし、初期の代表作《ドイツの少年》では半ば勃起した大きな男性器をさらしている。靴下と革靴だけしか身につけていない裸体など日常的ではないその淫靡な世界を公的な美術館で紹介することに対して、美術館内部でも多少の躊躇があったことも事実である。しかし、これまで開催したどの会場でもこうした作品を展示することにまったく苦情がないのである。お役人的発想からの取越し苦労であったが、作品を感じる眼は観覧者の方がもっと進んでいたことを知るいい機会ともなった。ただ、新聞やテレビでこの展覧会を紹介しようとしても、やはり倫理規定上、画像によって十分に作品を伝えることができないのがもどかしい。
もともとこの展覧会を開催するにあたって、彫刻の紹介を活動の柱のひとつに掲げる芸術の森美術館にとって、同じ人の形をつくりながら彫刻と区別されてきた「人形」の展示を通して、逆説的に彫刻とは何かを考える機会になればというのが表向きの理由であった。一方で、現代においては両者の境界が曖昧になり、区別自体が無意味なものであろうとも思っていた。しかし、実際に作品を展示し毎日シモンの作品と見ていると、これまで接してきた彫刻とはやはりちがうものを感じずにはいられない。「気配」とでもいえばいいのだろうか。展示作業と初日のトークショーのために来館した四谷シモン本人も、「気配」ということを口にしていた。そして、彫刻との違いは「かわいい」とか「気持ち悪い」とかいう気持ちを抱かせるものであることとも。各自がそこにさまざまな思いを込め、各自の心を映す器としての色が濃い造形。人形と彫刻、やはり同じようでいてちがうというのを感じる昨今である。