「学芸員レポート」でもちょっと触れるように、関西ではアートセンター系のスペースでの活動にも興味深いものの多い3月だったが、同時に、意外に、なんて言っていてはいけないのだが、美術館の、どちらかといえば地道な種類の企画で面白いものが多かったように思う(ここに挙げた以外にも、例えば芦屋市立美術博物館では田中敦子展が始まっていますしね)。中でも個人的に特に楽しめた2つを紹介したい。
まずは西宮市大谷記念美術館で開催された「グレー村の画家たち」展。最終日に滑り込みで見学。最終日とはいえ日曜の朝一番、すでに会場は熟年のおばさま方でいたく賑わっていたから、その意味では決して地味な展覧会という訳でもない。とはいえ誰もが知っている出品画家といえば、導入として一点だけ展示されているコローと、あとは日本の洋画家たちぐらいだろう。むしろ今では忘れられた画家たちをとりあげた、とってもリヴィジョニズムな展覧会である。19世紀の後半に芸術家コロニーとして賑わったフランスのグレー村に焦点を絞ったこの展覧会の主役となるのは、同地に住み活動を展開したアメリカ・イギリスといったアングロサクソンの画家や北欧の画家、それに黒田清輝・浅井忠ら日本の画家たち。なぜならパリの南東約70km、フォンテーヌブローの森を挟んでバルビゾン村と対照となる格好で位置するこの村に住んだのは、ミレー、コローといった本家バルビゾンのフランス人画家たちに憧れてやってきた「外国人」画家たちだったからである。
すでにクロード・モネがぐにゃぐにゃの日の出を描いた後グレー村にやってきた彼ら彼女らの作品は、当時のフランス画壇で「主流」であった、外光の明るさをとりいれた写実的な折衷自然主義様式であるという点で共通するが、当然その表現には幅があって、国別の展示になっている会場では、イギリスやアイルランドの画家たちの何故かいきなりアンニュイな人物が沈思して佇むメランコリックな夕景や、白々しいほど明るい光に満ちた北欧の画家による室内風景など、それぞれのお国柄、見いだした郊外風景−つまりは決して全くの自然ではない農村風景−の違いが面白い。強烈な吸引力を持った都市郊外の風景を、多国籍な画家たちが同じく訪れ眺めるということ、そして発見した風景の多国籍ぶりこそが−結局風景はそれぞれの内側に発見されている−近代であると感じさせてくれる自己言及的な会場は、皮肉なことに、同時にここにはない「王道」である印象派の「巨匠」たちが、なぜ王道たりえたのかということを、その不在によってはっきりと感じさせる展示でもあった。そしていくら「周辺」ではあると言っても、結局は本家からちゃんとのれんをわけてもらっている画家たちの絵に対し、最後の一室に入ったとたん目に入る日本人画家たちの風景のあまりの異質ぶりは、本家との比較ではなく周辺の中におかれることによりますますあからさまで、殆ど涙ぐましくさえある。壁に並んだ絵がそれぞれの絵が、壁の文脈の中で存分にものを言っている感じのする展覧会だった。
しかも会場で、そうした多様な風景の好き嫌いを「あたしはこっちのほうがえぇわあ」などと、作家のネームバリューだとかの先入観なさげに、まさに等価なものとして評しているかのごときおばちゃんの同じ口から「せやけど私はここらへんのなぁ、後期印象派(いきなりこの用語が飛び出すのもすごい)のへんまでやわ、あんまり抽象的なんわなぁ」という声が漏らされるのを耳にし、いったいこの国のこの人たちにとっての、この限定された美術って何?とまたぞろ考えさせられるというオチまでしっかりついたのである。
なおこの企画は美術館連絡協議会という団体に加盟する5つの美術館の共同企画により開催されているもので、西宮会場の終了後も2会場を巡回中である。