「こと」をめぐる本展も含めて、2月から3月にかけて行われた、「出会い」(東京オペラシティアートギャラリー)、「ギフト・オブ・ホープ」(東京都現代美術館)など、身の回りの人や事物や現象との出会いから生まれる関係に注目し、美術を日常の生活の場に取り戻そうとし、そこから新たなミレニアムの可能性や希望や物語を探る現代美術展が最近増えている。
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個から普遍へというひとつの命題を、私からあなたへ、そして「さまざまな他者」へという水平志向で乗り越えようとするアートのあり方に可能性を感じている。が、こうした「こと」をめぐる美術館での展覧会には反対に限界性を感じさせられることが多い。「アーティストの冒険」としてよりも、ここまでよくやった的な「美術館の冒険」の側面が先に目につく気がする。そして何よりも、四角くて真っ白で巨大な展示空間に、現代美術として収まった「日常のものごと」は、やはりどこか予定調和的で、囲い込まれた存在に見えてしまうのだ。
「ことのはじまり」展の資料には、ことの結果ではなく、〈誰も予想しなかったような「こと」が起こる、「こと」を起こす、「こと」に立ち会う、「こと」に関わる〉ことを目論んだとある。脱美術館的な展覧会にもっとも必要なのは、出会いや交流が巻き起こす予想外の関係や事件によって、美術館自らが緩やかに解体していく、寛容かつラジカルなシステムといえるかもしれない。先の東京でのふたつの展覧会と「ことのはじまり」展、すべてに選ばれた唯一の作家、島袋道浩さんの、例えば「タコとタヌキ−島袋野村芸術研究基金」(「出会い」展)は、作家の側からの既存のシステムの「脱臼」例といわれたように、その可能性を示唆してくれて数少ない例といえる。
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さて、他人事ではなく、実は現在福岡県立美術館でも「こと」をめぐる展覧会「アートの現場・福岡 VOL.9 鈴木淳展」を開催している。サブタイトルに「こんなトコで、あんなコト」とあるように、展示室はもちろんのこと、美術館の外でも、北九州市在住の美術家鈴木淳さんいうところの「も〜、あんなことしてから…」のあんな「コト」が行われつつある。
「複数のコンセプトによる複数のプロジェクトを、短期的に事前に立ち上げ展開」していくなかから、多様性に満ちた「ありのまま」の状態で共感を生みだすこと、これが作家の意図。1階のガラス張りのロビーに設けた会場には、ひとつから全体をみわたすことができないように設定された、日常的で「凡庸」(作家いうところの今回のキーワード)で、断片的で「しょぼくさい」(鈴木さんの作品は毎度こう呼ばれる)、作品とも資料とも記録ともコレクションとも拾得物ともつかないものが日々増えている。
日々増えていると書いたのは、毎週土日祝日に行い続けている「作家参加型」アートイベント以外にも、(先生という職業柄さすがに毎日は無理だが、)かなり頻繁に作家が会場に現れていることを示している。
ところで、「作家参加型アートイベント」という表現、気になりませんか?
イベント一覧のとおり、文字通り作家自身がオッペケペ隊や人形劇団やノイズバンドに参加させてもらったり、作家主導・主演のパフォーマンスやイベントを行うことを意味している。「鑑賞者参加型」はよく聞くけどという問いに、「鑑賞者参加型って、アートとして当たり前すぎて変ですよね。それをわざわざ美術館が謳うのは、いままでいかに鑑賞者無視の展覧会をしてきたかっていっているだけじゃないですか。それなら作家が参加し続けたほうがおもしろい。」と鈴木さん。さらに「鑑賞者参加、交流、コミュニケーション・アートって、いえばいうほどアートのディスコミュニケーションがわかってくる」とも。
ディスコミニュケーションの中のかすかなコミュニケーションついて感じあいたいと語る、鈴木さんの「コト」プロジェクトのてんまつについては、後日ご報告します。「こと」をめぐる美術館での展覧会の可能性を、まずは限界性をきっちり踏まえることから始めてみようと思うこの頃です。