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Recommendation
兵庫 山本淳夫
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exhibitionパフォーマンス「蝕」
――“PERSONAL VISION 2001”関連イヴェント

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パフォーマンス「蝕」
坂出達典 パフォーマンス「蝕」
movie(19秒 / 424Kbytes)
 坂出さんはずっと音を素材にした作品を作り続けているが、ほとんどメジャーなところで発表しないし、個展もほとんどしたことがない。その作品に最初に興味を持ったのは、確か一年前の六甲アイランド野外展の時。高所からギターの弦を一本たらし、その先に紙コップを取り付けただけの作品だった。弦の途中、ちょうど倍音が生じる比率のところにクリップが挟んであるのがミソで、紙コップを耳に押し当てると「ギューン」という倍音のうなりが聞こえる。海沿いで極めて風が強いため、一種の自動演奏になるのだ。肌で感じる風と音とがシンクロする一方、眼前に広がる空や海の景色とのギャップが鮮烈で、こんなに簡単な仕掛けであるにもかかわらず、ちょっとトリップしそうなくらい効果的だった。その坂出さんが最近さらにさえている。近作がどれも素晴らしく、昨年末に引き続き本欄にご登場願うことにした。
 前回のインスタレーション同様、今回もソーラーバッテリーを用いたパフォーマンスである。普通は蓄電池などに接続するところを、ここではアンプの音声入力を通してスピーカーに直結されている。本来は電源であるはずのソーラーバッテリーが、音源として用いられているわけだ。あとはソーラーにどのような光信号をインプットするか、ということなのだが、そのセンスが尋常ではない。
 床面に置かれたソーラーの真上に、絵はがき大の紙片を取り付けた金具と2本の懐中電灯がつり下げられている。おもむろに扇風機で風を送ると、まさに絵づら通りに、風鈴のように澄み切った金属音がスピーカーから流れ出す。風で揺り動かされた金具が懐中電灯をヒットする際、豆電球のフィラメントが微妙に振動し、それが光の揺れとなってソーラーバッテリーにインプットされ、スピーカーから音声がデコードされるのだ。紙片が周囲に光を乱反射するのも美しい。続いて取り出したのは小型ラジオ。ただし内蔵スピーカーのコーンが取り除かれ、そのかわりに豆電球が取り付けられている。もちろん本体から音は出ないのだが、その光をソーラーにかざすと、ノイズ混じりのラジオの音声がスピーカーから聞こえてくるのである。音声信号を光の振動へと変換した、超プリミティブなワイヤレス光通信システムというわけだ。最後に2本のスティックをとりだし、懐中電灯の光をスライスするように振り回す。スティックの描く軌跡が暗闇の中に浮かび上がり、瞬間的に光が遮断されるのとシンクロして、バタバタというノイズが出る。
 レディ・メイドといってしまうと簡単だが、彼は興味深い音現象を発見し、切り取り、提示する。興味が「おもろいこと」にダイレクトに直結していて、一見、ことさらにデザイン的にまとめる配慮がないようにみえるのだが、かえって潔いセンスのよさを際立たせている。そういえば最近、「世界は美しい音で満ちとる」と笑顔で語っていた。
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PERSONAL VISION 2001展
参加アーティスト:堀尾貞治、山下克彦、平井勝、坂出達典
会場:神戸アートビレッジセンター  兵庫県神戸市兵庫区新開地5-3-14
会期:2001年3月22日(木)〜26日(月)
   坂出達典パフォーマンス「蝕」:3月25日(日)
問い合わせ:Phone.078-512-5353 Fax.078-512-5356 e-mail: kavc@kavc.or.jp

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exhibition鷲見康夫パフォーマンス――“鷲見康夫展”関連イヴェント

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鷲見康夫パフォーマンス1

鷲見康夫パフォーマンス2
鷲見康夫パフォーマンス
movie(11秒 / 458Kbytes)


 この春、全く偶然なのだが、関西の公立美術館では3〜5月に田中敦子(芦屋市立美術博物館)、4〜5月に鷲見康夫(伊丹市立美術館)、6〜7月に白髪一雄(兵庫県立近代美術館)と元「具体」メンバーの個展が相次いでいる。
 本展は小企画展だそうで、残念ながらカタログは制作されていない。あくまでも地元作家(鷲見さんは伊丹在住)の新近作展、という位置づけらしい。確かに出品作は主に70年代以降の平面約20点が中心。展示だけでは「やや弱いかな」というのが率直な感想である。
 最も、鷲見さんのいい面をプロデュースするのは、実はなかなか難しいと思う。例えば、自作の管理もあまり行き届いているとはいいがたいし、50、60年代の作品でも平気で上から塗り重ねてしまうらしい。近著『やけくそ、ふまじめ、ちゃらんぽらん』(文芸社)の題名どおり、さすがにイージーゴーイングのすごみが身上なだけのことはある(!?)。
 本展の最大の見どころは、何といっても4月29日に行われたパフォーマンスだったといえるだろう。ただし、伝説的な「舞台を使用する具体美術」で発表された《オートマティズムによる描画》(1957年)の再演を中心にしたもの、との情報を事前に得た時点では「はずすんじゃないかな」との危惧を禁じえなかった。なぜならパフォーマンスが美術館の中庭で、つまり屋外で行われる、と聞いたからである。本来この作品は、舞台上に設置された透明ビニール製の巨大な立方体の内部から、観客席に向けて柄杓で塗料をぶちまける、という極めてシンプルなものだ。舞台空間特有の正面性や音響、照明の効果をはく奪されて、果たして作品として成立しうるのだろうか。
 小雨がぱらつくあいにくの天候の中、ほぼ定刻通りにパフォーマンスは始まった。ビニールの立方体の中で、まず床面に広げられた100号程度の作品3点が次々と仕上げられていく。バイブレーターやクシ、しまいには番傘をたたきつけ、いつもながらのアクション・ペインティングである。そしてついに、絵具がたっぷりはいったバケツと柄杓を手に、《オートマティズムによる描画》が始まった。赤、青、緑、黒の鮮やかな色彩が観客に向けて次々と投げつけられる。しまいには柄杓を投げ捨ててバケツごとである。当然のことだが、あらためてモノクロの記録写真とのギャップを感じる。まず、原色の色彩の鮮やかさ。さらに、絵具は内側から次々と重なっていくものと思い込んでいたのだが、実際は平滑なビニール面には定着せず、一瞬後には流れ落ちてしまうのだ。「バシャッ」という衝撃音とともに、飛沫を伴った形態がストロボのように瞬いてはすぐ消え去ってしまうのだが、その瞬間的なフォルムは鮮やかな残像となって網膜に焼き付けられる。
 「具体」の最良の作品群は、資料だけをみるとしばしば非常にシンプルな、ほとんど「思いつき」じみた軽さを感じることが多いのだが、実物の存在感や迫力は、しばしばそうした先入観をはるかに上回る。そしてなにより、非常に楽しい。ギャラリーからはのどかな喚声と笑い声が上がり、一人の子どもはかぶり付きで、飛んでくる絵具との追いかけっこに興じていた。「おうちで真似したら、あかんでぇ」とクギを刺すお父さんもご愛嬌である。
 結果的に、鷲見さんはパフォーマーとして充分時間と空間を持たせていた。これは、ほとんど計算というものをしない彼だからこそ成しうる技であろう。まるで子どもの泥んこ遊びのように、まず自分が楽しむのに夢中である。堀尾さんのパフォーマンスのように、己を律して研ぎ澄ましていくのとはまた違った、「なんぼでもゆるんでええやんか」みたいな、開き直りの哲学である。そうそう、一見コテコテのハチャメチャでも、結構みんな哲学者なんですね。照れ臭がってなかなか白状しないんだけど。
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鷲見康夫展
会場:伊丹市立美術館  兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20
会期:2001年4月14日(土)〜5月20日(日)
鷲見康夫パフォーマンス:4月29日(日)
問い合わせ:Phone.0727-72-7447

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report学芸員レポート [芦屋市立美術博物館]

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 阪急西宮北口の駅を北西に降りて徒歩約3分。とあるビルの4Fにそのバーはある。そう、数ある(そんなにないか?)アート系飲み屋のなかでも、関西屈指のディープな存在「メタモルフォーゼ」である。一昨年秋に初めて本欄に寄稿させていただいた折、名前だけは出しておきながら長らく本格的に取り上げる機会を逸していた。
 震災後の区画整理に引っ掛かるまで、同店は駅の北東にあった。当時この一帯は、まるで戦後まもないころの町並みを冷凍保存したようだった。私も折りに触れて足を運んだものだが、「メタモル」以外にも怪しげな飲食店が点在し、時間が止まったかのような不思議な雰囲気が懐かしく思い出される。現在は近代的なビルの最上階へと場所を移したものの、一歩店内へ足を踏み入れると、その異様な雰囲気に最初はたじろぐ人もいるかもしれない。しかし、慣れればとにかく落ち着ける空間である。足踏みミシンを改造した奇妙なテーブルも昔の店と同じ。そして、何といっても安い。確かトリスウイスキー\300.-からある一方、ドリンクメニューの品ぞろえはなかなかのこだわりである。
 当方がこの店で思い出したように時折オーダーするのがジン・ビターだ。これはある人々にとっては特別な意味をもつ飲物である。故村上三郎さんが好んでよく飲んでいたものなのだ。ビターを1.5滴たらす、というのが彼専用のレシピだった。1滴はともかく… マスターは気合いで指先をぷるぷるさせるのだが、0.5滴というのはほとんど無理な注文。味わう前に、村上さんは褐色のビターが透明のジンのなかに不定形に広がってゆくのをしばし眺めて楽しんだという。彼には一体、何が見えていたのだろう。
 酒豪だった村上さんは、すぐ近くの県営住宅から頻繁にこの店へと足を運んだ。当方も何度かご馳走になったことがあるが、残念ながら「メタモル」では遂にご一緒しなかったと記憶している。これは本当に残念だ。ほとんど断言できるのだが、美術にまつわる話をしていて、村上さん以上に興味深く、引き込まれるような経験をさせてくれる人物は他にいなかったし、今後も恐らくないだろうと思うからである。彼は美術家であると同時に哲学者でもあった、とはよくいわれることだが、彼と話していると、すべて受け入れてもらえるようで、非常に楽な気分になったものだ。それでいて、いつのまにか非常に深い次元の話題になっている。しかし、用いられる言葉は極めて平易なのだ。どれだけの人間が、この「メタモル」という空間で村上さんから個人授業を受けたことだろう、と思う。
 こういう場所の存在が、ある種の文化の厚みのようなものを醸成しているのは間違いない。震災後ずいぶん様変わりしたが、阪神間から神戸にかけては結構そんな雰囲気があって、堀尾貞治や榎忠といった作家が生まれる背景となっているように思う。一方で行政は区画整理を断行し、旧村上邸の跡地には演劇を核にした芸術センターの建設が予定されている。もちろん構想自体を否定するわけではないのだが、そういう発想からこぼれ落ちてしまう隙間のような空間に、文化の非常に大事な部分が宿ることが多いようにも思うのだ。少なくとも私個人としては、このような草の根的な土壌に対する敬愛の念を忘れないようにしたいと思う。
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