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岡山 柳沢秀行
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exhibition尖端に立つ男 岡本唐貴とその時代1920-1945

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尖端に立つ男 岡本唐貴とその時代1920-1945
 まずは、これだけの資料が残り、そして集められたことに驚く。
 岡本唐貴(おかもと とうき)と言っても、その名を知る人は多くないだろう。17歳頃から独学で絵画制作を始め、大正期の前衛美術運動、そして昭和初頭のプロレタリア美術運動の真っ只中を駆け抜けていった作家である。
 長くはなるが、あまりにどのような作家であったのがわからないといけないので、ほんとうにかいつまんでその活動を紹介する。
 1920(大正9)年頃から独学で絵画制作を始め、多くの画家と同様に、当初は幾重にも塗り込めた再現性の高い作品を描く。それが1923(大正12)年4月にフランス人画商デルスニスが企画した第2回仏蘭西現代美術展に招来されたピカソやメッツアンジェなどフランスの同時代作家の作品を見ると、ただちにその表現を摂取して幾何学的な形態やコラージュ風の描写を行い、二科展内の急進的なグループ「アクション」に参加。さらに1924(大正1 3)年10月「アクション」「MAVO」「未来派美術協会」など当時の前衛的な美術グループが大同団結した「三科」結成に参加し、今で言うインスタレーション作品を手がけたり、翌年5月に開催されたパフォーマンスイベント『劇場の三科』では無言劇を行なったりする。もっとも「三科」が短期間で分裂すると、それまでの作品はあくまでブルジョワジーが生み出したスタイルであり、その退廃的な表現を清算し明るく健康的でそしてより多くの労働者に担われるべき芸術を生み出すとして「造型」を結成し、大きな眼と健康な体躯を持った人物像を描く。さらに1927(昭和2)年5月に「造型」のグループが、革命後の反動的な様相を示す当時のロシアの美術状況を反映した『新ロシア美術展』を招来すると、その影響下にネオ・リアリズムを提唱して極めて再現性高く穏健な写実絵画を制作。やがて、そうした思想がプロレタリア文化運動に同調し、19 29(昭和4)年日本プロレタリア美術家同盟中央委員となり、組織と実作の中枢を担う。
 かいつまんでも、これだけ。ここまでわずかに10年ほど。
 まさに岡本は、その思想、画風をめまぐるしく展開して、芸術の革命から革命の芸術へと駆け抜けて行った。それに続く時期についても、プロレタリア美術運動が激しい弾圧を受けて終息を余儀なくされると、1940年代は輝くような光をたたえ再現性の高いスタイルで農村の風景を描き続け、また戦争直後はいわゆるリアリズム論争に加わるなど生涯に渡って日本近代美術史に問題を提起し続けた存在である。またプロレタリア美術運動時にはグラフィックなど印刷媒体にも手を染めているから、こうした領域においても重要な作家である。
 これだけめまぐるしく作品スタイルや所属組織を変えたと言うことは一種の自己否定であろうし、また特にプロレタリア美術運動が徹底的な弾圧を受けたのだから、没収やら転居やら潜伏も激しかったであろう。あるいは最初から形が残らない作品もあったりだから、その活動を今となって作品によって跡付けようとすれば、それはかなり大変な作業である。
 幸い、近年の大正期から昭和戦前期の前衛美術運動の飛躍的な調査研究の進展、特に岡本については門田秀雄氏による長年の地道な研究活動の蓄積、また東京都現代美術館図書資料室に岡本文庫としてその関係資料が一括して収蔵されていたことなどから、様々な悪条件の中で、それに比すれば、よくもこれだけと思える、作品や資料が一同に介することとなった。これらの情報を丁寧に拾い上げ、ここまでまとめた担当学芸員の努力にも敬意を表したい。

尖端に立つ男 岡本唐貴とその時代1920-1945
 もっともさすがに岡本唐貴単独では、展覧会として成立する物量が確保できなかったのであろうか。展覧会は、その周辺の作家達の活動も含めて構成されている。その厚みの増し方も、まさに現在の大正期前衛芸術運動研究の進展を反映して実に見ごたえがあった。
 ただ特に1930年代後半の作家になると、キーワードとして「社会参加」が見えてくるぐらいで、なぜこの作家の、この作品がと言う位置付けが見えない。セクションとしては「危機の時代のリアリズム」として『同時代の作家たちのリアリズム絵画を通して、戦争という危機の時代における美術の一断面を紹介する』としているが、井上長三郎、麻生三郎、靉光、松本竣介の新人画会メンバーが出てくると、またかと言う感じで、一つ一つの作品についてそれが選択された理由を聞いてみたくなるし、そうした括りなら取り上げるべき作家は彼等達だけなのかと思ったりする。もちろん思ったとおりの作品が相手先から借用できないのは十分承知しているが、例えば松本竣介を紹介するなら今回の出品作を所蔵する神奈川県立近代美術館から『立てる像』、あるいは岡本作品を借用している宮城県美術館から『画家の像』を借用して、等身大の人物像をピックアップした構図とプロレタリア美術作品との比較の場を提供するなりすれば竣介を取り上げた意味がよりましたであろうに。
 またこの展覧会が岡本唐貴の戦前期の活動だけを対象としているが、ここで取り上げた25年に対して、岡本はその後40年近い活動を続けているわけである。図録所収のテキストで担当学芸員の佐々木千恵氏が戦後になって制作された復元画と自伝的回想画を主題として取り上げてはいるが、なぜこうした対象の限定がなされたのかの説明が十分にはなされていない。私自身もずっと関心をもってこの時代の美術を考えてきて、この選択は妥当なものだと思うだけに、それが説明少なく放りだされていることがいささか残念であった。
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会場:倉敷市立美術館  岡山県倉敷市中央2丁目6-1
会期:2001年4月20日(金)〜6月3日(日)
問い合わせ:Tel. 086-425-6034

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exhibition第2回 山・里に出た美術展 アンデパンダン

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第2回 山・里に出た美術展 アンデパンダン


 工悦邑は岡山市街地から車で1時間ほどの、広い谷あいで榎本勝彦、草間よし雄、白石齊のアーティスト3家族が暮している。
 もとから地元住民や周辺のアーティストとのかかわりを求めて様々なイベントを実施してきたが、その広大な敷地を活用しての屋外アンデパンダン展を実施。今回がその2回目となるが、呼びかけ人に37名、実行委員に40名が名を連ねる万全の体制をひき、そこから周辺に声を掛け合って、なんと出品者130名、その他に10のコンサートやパフォーマンスが実施される。
 実に立派な作品配置図まで作成されているが、そこに記された呼びかけ人、実行委員、出品作家の名前を見ると、日頃から元気よく頑張っている学生から始まって岡山の美術関係者の大半が網羅されているようで、ここに名前がない私などはもぐりのような気分になる。
 これだけのものを作りこむ作業量たるや凄まじいもので、また第1回から確実に成長している様をみると、核となったメンバーの方々には心から敬意を表したい。ほんとに凄い。
 もちろん日頃制作活動をしているわけではない方もいるなど、キャリアの差は様々であるから、開会前の雨(晴れの国 岡山では珍しく2日も続いた!)で早くも損傷した作品もあるなど屋外展示の困難さをしみじみと感じさせるシーンもあったが、のんびりとした谷あいをオリエンテーリングよろしく作品を見つけながら歩くのはなんとも気持ちがよい。
 時折、おっ!と言う作品があると、ああなるほどと言う作家さんであったり、初めて目にする名前があって後で聞いたら学生さんだったり。逆に名前があったはずと思いつつも目につかなかったりと、130人のバトルロイヤルは壮観であった。
 オープニングからの人出も好調で、広い敷地内のどこでも人が見えなくなることはなかった。岡山のような地域でも、これだけのイベントを作り上げる活力があり、またそこに人が集うことを感じられて、なんとも心嬉しくなる散策であった。
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会場:工悦邑  岡山県赤磐郡熊山町
会期:2001年5月3日(祝)〜27日(日)

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report学芸員レポート [岡山県立美術館]

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 年末年始の休みやら、ゴールデンウィークとなると、いつも原稿書きをしている。今回もこの原稿の他に美術館発行の年報に館ニュース。それにまるで毛色が違うところで、いわゆる学術論文も一本仕上げなくてはならない。
 と言っても、私の書くものなど嘘は書かないぐらいの良心だけは忘れず、あとは「学術論文の体をした」レベルものだが、ひさ〜しぶりに典拠文献などこまごまとした脚注をつけたものを書いていると、以前からの思いがふつふつと頭をもたげてくる。
 「学術論文ほどインターネット上に載せたほうが絶対良い」
 理由は3つ。
 
1・いちいち出典を記しても読者が実際そこまであたっているか?第一にその文献の入手から面倒。逆に見れば、読者がそこまでチェックしないとなると、執筆者が文献をまったく違う読み込み方をしているかもしれないし、嘘をつく事だってやろうとすればできる。
今やWEB上での原稿はキー単語からのリンクなど常識。もし素材となる文献がデーターベース化されてWEB上で公開されていれば、執筆原稿からのリンクですぐに典拠文献にあたれるようになる。あるいは執筆者が手間をかければ、従来の紙媒体では字数制限から難しいが、典拠文献の提示のみならず、その引用文をも書けるのだから、文献資料の大データベース構築がなされなくても状況はだいぶよくなるはず。
 
2・関心のある読者が文献を見つけやすい。
私など、日本の近代美術についての文献にあたることが多いが、職業柄、だれがどのようなことを書くのかは大体把握しているから、いざ自分が参照しようとする際、たいていどんな文献があったか心覚えがあるほう。けれどもいざとなると、意外な文献を見落としていたりする。
今やWEBでの検索機能も充実。だったら学術論文もWEB上で公開されれば検索かければ、かなりの見落としも防げるはず。
 
3・なんたって読者の数
このWEBサイトは月間90万アクセス!だと聞いて、それ以来書くのに尻込みする。まあ私の原稿までそのうち何人来ていただけるかとも思うが。
いわゆる学術論文といったものは諸機関の紀要やあるいは論文集などの紙媒体に掲載されるが、だいたいそれが何部発行され、そのうちの何部が人の目に触れるものやら。
それにコストが幾らかかるのか。WEBにすればカラー写真も使い放題だけど……。
 
 すでにこうした動きが始まっているのでしょうが、新しい情報の提示とともに、こうした情報の使用利便性からも「学術論文ほどインターネット上に載せたほうが絶対良い」と思う次第です。
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