毛利:「結末部分は朗読されただけで、紙には印刷されていませんね。すると、紙に書かれた部分と、そうでない、記録に残らない部分と、ふたとおりの表現になるように思いますが」
福永:「そのとおりです。読者は、ガラスに貼られた文字や、朗読されただけの結末部分を思い起こしながら、自分の記憶をたよりに、読むことになります。それは、ふだんの小説を読むという体験とはおそらく、異なるものでしょう。しかし、それでよいのです。小説は本来、多様なものなのですから」
毛利:「お話を聞いていると、福永さんは小説の内容よりもむしろ、形式、表現のされかたのほうに、関心があるのではないか、と思われます。この『迷子の迷子』のテキストも通常とは逆の、縦書きを左から読む、という書きかたですね。今さっきの朗読を聞きましても、その唐突な終わり方、物語を準備しておきながら放り投げてしまうような結末は、形式を強調するためなのではないか、と思ったんですが、それはどうでしょうか」
福永:「するどいな。正直いいまして、そのことは自分でもわからないところです。書いているうちに、最初のプランが変わってしまうんですね。この『迷子の迷子』を書き始めたときは、もっと別の終わりかたを考えていました。けれど、けっきょく、物語じたいが迷子になってしまった」
毛利:「今、物語じたいが迷子になったとおっしゃいましたが、唐突なのは結末だけにかぎりません。話が進行するにしたがって、その話そのものがズレていきます。ふつうの人間だと思ったら、人形だったり、しゃべっているのかと思ったら、カセットプレイヤーだったり、あるいは、ぬいぐるみだったり。そのへんの意図をお聞かせください」
福永:「言葉によって頭の中で結ぶ像は、いつでももんぎりがたなのではないか、という思いがあります。例えば、ダンプカーが突っ込んで来た、というと、すぐ、イメージできますね。背景さえ見えるくらい、クリアーにイメージすることができると思います。その場合、ダンプカーという言葉も、またそのダンプカーが突っ込んで来るという文章じたいも、もんぎりがたの表現です。アリが突っ込んで来た、というと、ちょっと、想像しにくいでしょう。どうやって、どこに突っ込むのか、人間のように大きいのか、現実のアリなのか、そのスケールがさっぱり確定しない。もんぎりがたの表現を利用しつつ、ちっともクリアーなイメージにはいたらない、というわけです。ぼくの作品がやってるのは後者に近いと思います。また、それはぼくだけの問題ではありません。今、若い現代文学の作家はもんぎりがたを多用しながら、独特の風景を作っていると思います」
毛利:「もんぎりがた、というと、文学だけではなく、現代の美術にも、通じるような気がします」
福永:「おそらくそうだろうと思います。かつて演劇的だった現代美術が、ビデオ作品の流行によって映画的ともいうべき状況になった。つまり、もんぎりがたの、伝わりやすいイメージを使うようになった。伝わりやすいイメージを使っているけれど、しかし、おそるべきことにいっこうに何も伝わっていない。乱暴にいうと現代美術の風景はぼくにはこのように見えます」
毛利:「それは批判されるべき状況だと思いますか?」
福永:「可能性だと思っています」
毛利:「この後、もう一人の役者のかたが朗読されるんですよね?」
福永:「おなじものを読んでもらうんですが、さっきの田戸麻耶の朗読とはまったく異なるものになるでしょう。それはその役者が男だから、ということもあるし、本多信男の個性でもあります。ぼくは田戸さんにも本多くんにもとくにこうしてくれとか、何もいいませんでした。ふたりがそれぞれ、自分の声を自分で聞き、この小説を解釈し、自身で工夫したのです。そして、それが、読書のもっともシンプルなありようでもあると、思うのですが」
毛利:「時間になったようです。私たちの話はこのへんでひとまず、終わることにしましょう。もし、福永さんに質問などがありましたら、あとで本人に直接、聞いてみてください」