高度経済成長、安保闘争、全共斗運動の全盛期であった1970年、昭和史における一大イベント「EXPO'70」が開催された。プロデューサー岡本太郎氏による万博のシンボル「太陽の塔」は、現在も大阪千里万博公園の緑の空間にそびえ立っている。同じ敷地内にあるモダニズム建築の様式美を匂わせる日本万国博覧会美術館は[国立国際美術館]と名を改め、時代と共に変革する美術の有様を伝えてきた。多様な美術作品の展示に対応可能な美術館建築特有の「ホワイトキューブ」に加え、外光が降り注ぐガラス張りのエントランス、傾斜する屋根、地上3階から続く階層構造など、建築家/川崎清氏の個性がちりばめられた独自の空間がそこにある。
2000年6月、その個性を十分に堪能できる企画展「空間体験:[国立国際美術館]への6人のオマージュ」が開催された。テープで仕切られた床のラインとそこに収まった多くの自動車によって駐車場という日常空間へと化した展覧会場。無垢な白色が主流の美術館に似つかわしくない真っ赤な壁面に導かれる3階から2階の階段空間。重要な展示スペースとして君臨する長い壁面空間を意識させるナイロン性の紫色の円柱など。通常の展覧会に期待するオブジェクティブなモノは存在せず、無個性と思われた展示空間そのものが作品と化すサイト・スペシフィックなインスタレーションが展開されていた。正しく、展覧会タイトルどおり、6人のアーティスト各々の誘いによって[国立国際美術館]という固有名詞をもった建築空間を意識せざるをえない。鑑賞/体感者である私は、自身の経験にのみ作品の本質が由来するという感覚を今でも覚えている。
2001年10月、そのトリビュート第二弾とも呼べる展覧会「主題としての美術館ー美術館をめぐる現代美術ー」が同プロデューサー(学芸員ではなくあえて)によってリリースされた。
今度は[国立国際美術館]という固有名詞ではなく、[美術館]という代名詞そのものに着目した逸品だ。
美術館や美術教育の歴史が浅い日本において、現代美術の源泉はアメリカ/ヨーロッパの水脈によって形成されていることは逃れられない事実である。その事実を作家の選定(欧米を中心に活躍するアーティスト)により真っ正面から突きつけられた。ニューヨーク近代美術館のキャプションを羅列したジャック・レイルナー。収蔵品はもとより館内で実際に使用している全ての椅子をカラフルな雛壇に羅列したクリスチャン・フィリップ・ミュラー。ガラスやアクリルケースなど作品を禁欲的に保護する展示形式そのものを提示した竹岡雄二。インクジェットプリンターによって切り取った空間にライティングとすりガラスのフィルターで独自の美の空間を現出させたアレックス・ハートレー。実際に使用していた真っ赤な壁紙に刷り込まれた作品の痕跡と見られる矩形の残像によってその時の流れを示唆したウテ・リンドナー。名画に群がる観衆真理までも映し出したトーマス・シュトゥルート。この他出展アーティストのそれぞれの視点で作品化された「美術館」のコードは、展示様式や空間、美術館に関わる人物像といった類型化が可能であった。これら作家のフィルターを通じてコード化された[美術館という主題]を[展覧会という様式]によって再構成する。この重層的に仕組まれた知的なゲームを楽しむ為には、受け手独自の「作法の極意」が必要である。それは個々の作品と自己の「美術館像」との対話を繰り返すうちに紡ぎ出されていく、ある種のミュゼオロジーと言えよう。そうして受け手が独自の見解を巡らせているうちに、建設現場の構造物とおぼしき写真や建材の断片作品(メル・ジーグラー)にたどり着く。「これは何ぞや?」という疑問符を払拭するかのように、出口付近には2003年に大阪の中心地区(中之島)に移転予定の新美術館の建築模型が置かれている。美術館という代名詞について考えながら進んでいくロールプレイングゲームのエンディングに用意された新美術館構想。こうなれば、新[国立国際美術館]に期待せざるをえない。またしても、してやられてしまった。
1970年の熱き時代から四半世紀以上を経た新世紀、時代の潮流によって施行された国立美術館の独立行政法人化は、美術館に様々な課題を投げかけていることは周知の事実であろう。今までおざなりにされてきた観客創造について、美術館は咀嚼・消化し栄養素を蓄え、独自の力量が求められている。ただそれは、むやみやたらにフレンドリーに振るまう劇場やアミューズメント的なニーズに応える過剰なサービスではないはずである。ギャラリー、オルタナティブ・スペースなど芸術文化の環境を創造する場は様々だが、美の殿堂としての[美術館]の役割とは、美の根幹について熟慮し、そのクオリティーを極めることではないだろうか。
少なくとも、新[国立国際美術館]には、自らの思考や感覚と向き合うことを拒む受け手の意識に「待った!」をかけ、数値化や他人に依存しない価値観を築く為の[知能する場]としての意志を感じた。2つの巧妙な知的ゲームにしてやられた私個人の勝手な願いをこめて……。