このセンターは初めて来たんですが、閉校になった小学校を改築して去年オープンということで、元の教室の雰囲気も残したアトリエのようなイイ感じのスペースでした。今回の二人の作品、ちょっと見るとスタイルもモチーフも技法もとりたてて似通ったところがないようにも思うんですが、今どき(たぶん)めずらしくも本気で「絵」とか「作品」とかを作ろうとしている点が同族といえるでしょうね(「作品」とは何か、は展覧会サブタイトルを参照、あとここ「方法 第5号」とか、ここ「批評空間」とかもどうぞ)。
岡崎さんの絵はここ何年も続けているシリーズで、キャンバスにいくつかの色面をこう、ペチャ。ペチャ。と置いていったように見えるものなんですが、これが色といい形といい相当キビシク計算されていて、目線を動かしながら見ていると何だかとてもハイになります。しかもきれいです。同じ部屋に粘土のカタマリのような物体があって、実は複雑に焼いた磁器ということでこちらはきれいとはいえませんが、形の組み合わせのあれこれと、別のあれこれの組み合わせの形が、とてもおもしろい。
岡田さんの絵は、水際の葉っぱとかを200号くらいのキャンバスにクローズアップして描いてます。物知りさんなら「フォトリアリズム」とか「スーパーリアリズム」などと呼んじゃいそうですが、×です。とりあえず「写真」のことは忘れて、ここに表された何かをなんだかワケの分からないものとしてよく見てごらんなさいな、あなたは何を感じますか、というような絵です。
で、11月4日には、このお二人の作家といっしょにセンターの教室で「公開勉強会」をしてきました。100人近く聞きに来てたようで、京都には勉強が好きな人がこんなにいるんだと感激でした。浅田彰さんも一番前の席で何やらメモしながら勉強していて感激でした。かれこれ4時間以上勉強したので全部の内容は今はとても紹介しきれません、ので近いうちにまとめたいとも思ってますが、とりあえず心に残った作者の発言を少しだけ。やや意訳です。
・岡崎「ある視覚的経験が『イコン』として認識されていく、その前の『イメージ』」(自作についての注釈)
・岡田「『リアル』に再現するのではなく、その絵自体が『リアル』であること」(同上)
他にも、清水佐保子さん(京都市美術館)、三脇康生さん(精神医学、美術批評)がこの会で発表して、いま何となく図式的に解釈されてしまいがちな「モダニズム」や「フォルマリズム」の、まだまだくみつくされてない可能性の勉強をしました。で、私はといえば美術の(不)景気の話をしたのですが、ちょっとうまく伝わらなかったところもあったようなので、以下やや乱暴にまとめ。
美術館とか何とか不景気ですが、そんな状況は何も悪いことばかりではない、といいたかったわけです。法人化だ財団化だとかといいつつ酷い切り捨て作業が進みつつありますが、もともと文化施設の多くは効率の悪い代理店のようなものだったんだから、そういった中間搾取がなくなるのもある意味結構なことじゃないかと。これを機に、一時的には安手のネットワークのように思われても、生産者と消費者が直結する回路を張り回して行くほうががよろしいのではないかと、いうことですね。これまでのように広くまき上げて薄く返すのでなく、必要な人が必要なコトとコストを直接サポートする循環です。で、もし行政なりの権力機構が関わる場合は、情報を完全にオープンにする、人的流通(生産者、運営者、消費者)も完全にオープンにする、ことができる「法的」エリアを確保させる、というのが基本的条件になります。どうもいままで、行政とかが「何をするべきか」ということが論点になってきたように思いますが、そうでなくて、「何をしたらダメか」という方向からのアプローチでいくのが正解なのではなかろうかと、思います。もちろん、関わらずにすむにこしたことはないです。
「生産者と消費者が直結する回路」ですが、これたとえばネット上の多くの細かいサイトがそうで、そこでは、(直接的な)金銭的利用価値の高い情報、は出回りにくい。逆に、(直接的には)金銭的な利用価値が低いもの、すなわち難解なもの、オタクなもの、モエなもの、突飛なもの、電波なもの、煽りなもの、は素早く出回る。それと、ネット外では社会的な圧力が強いものも避難場所としてあふれ出てくる(今度の反国家テロ関係など)。あとは、クズなものかドーデモいいもの多数、というところでしょう。で、そんな種類のエリアをネット以外でも作っていければ、少々不景気なものではあっても、いまよりはストレスのない美術(でもアートでもいいですが)の芝生が育つのでは、ないでしょうかね(ここで景気というのは流通する金額の多寡ではないです、「アブク銭感」とでもいいましょうか、念のため)。