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山盛英司(朝日新聞記者) vs 村田 真
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新春対談 アートとそれを取り巻く状況をめぐって

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■ヴェネツィア・ビエンナーレとアジア

山盛: ところで全然文脈が違うんですが、99年のヴェネツィア・ビエンナーレは圧倒的に中国人作家が多かったというのがあります。日本人は日本館の宮島達男さんひとりで、アペルトにはハラルド・ゼーマンが日本人を選ばなかった。まあ、審査員には日本人の長谷川祐子さんが出ていて、そういう意味ではひとり日本人が入っていた。長谷川さんに現地で「どうですか」と聞いたら、「日本は遠い感じがした」というようなことを言ったのが印象的だった。中国に比べたら日本の美意識は伝えにくいというような意味だったと思いますが、実感かなという気がします。全然アジアと結びつける必要はないかもしれませんが、しかし確かに、中国というかアジアという感じは出ていたと思います。ご覧になってどんな感じを受けましたか。

山盛英司氏

村田真氏

村田:
ゼーマンは日本に来なかったもんね。ただ、僕はあんまり日本がどうのっていう気がないんで、日本人がいないということには全然違和感がないし、中国の作家はやはりそれなりに面白かった。打たれ強いというか。雑草みたいな強さを持っていて、したたかさがある。けっこう何人かの作品が中国政府に対する批判を秘めていながら、それを前面に出さずにオブラートに包んで、だけど非常に強烈な皮肉を醸してるみたいな。

山盛:
生きてる金魚のやつ(廬昊「金魚鉢(天安門)」1998)とか。

村田:
そうそう(笑)。ああいうのは非常にたくましいなと思った。ああいうたくましさは、なかなか日本の若い作家は持ちえないし、また持つ必要もないのかなと思ったりして。

山盛:
ただ皮肉にも、中国人作家でも国際賞をとったのは蔡國強さんだったりするわけですよね。蔡さんもシャリン・エシャットも、みんなアメリカに住んでいる人たちだった。蔡さんはやはりうまくて、何回も行ったんですけど、非常に複雑な構造をとっていて、見る度に考えさせられましたね。

村田: 重層的な構造になっているから、たえられるんですよね。

山盛: たぶんあれもいわゆるプロジェクトだと思いますが、いくつかの入れ子構造になっているものです。蔡さんによると、中国共産党は大災害の後、不満を抱えた農民をなだめ抑えるために、もっとひどい時代があったことを示す目的で、金持ちが貧農を搾取するようなリアルな彫刻を美術家らにつくらせた。ヴェネチアにきていた龍緒理さんもその一人。年齢は59歳だとおっしゃっていましたが、彼がそれをリメイクし、さらに今20代の北京の芸大の若者たちも参加していた。構図としては、美術が政治のプロパガンダとして使われたという批判があり、しかしオリジナルの彫刻が告発していた貧困や搾取は無くなっていないという現実があり……さらに蔡さんはもっと広げていく。それから同じリアリズムでも若い世代と龍さんの世代との間にも微妙な違いがある。さらにはリアリズムが現代美術から消滅したという批判もある。さらにそれを蔡國強という人物がつくらせている。龍さんは中国語しか使えないので聞けなかったんですが、私は龍さんが一体どういう気持でいるのか不思議でならなかったですね。

村田: 龍さんがもともとのオリジナルの作品をつくっているときにどういう気持だったか、そして今どういう気持なのかっていうのがね。

山盛: 今の気持は複雑だと思うんです。中国でも結構高い地位の美術家なんですよ。
ということはけっして反体制派じゃないと思う。ひょっとしたらそういう方が、自分の状況を全然把握できないままやっている可能性もありうると思うんですよ。

村田: そのまま再現しているわけだから、あれは中国政府や龍さんに対しての言い訳がたつというか、別に何も批判というふうに捉えられずにすむわけですよね。

山盛: 一番の意味合いは、つまり「中国の封建時代はこんなにひどかったんだ」ということがまず第一のメッセージできて、そういうものをつくらされたという第二のメッセージはそれとまったく反対のがくるわけですよね。そういうのが波のように打ち寄せてはかえってゆくから、見ていても重層的でめまいがするところがある。

村田: あれを見た時に「これはインタヴューしないとだめだな。これは賞をとるな」と思ったね。

山盛英司氏

村田真氏
山盛: 先ほどのアジアの話に戻るんですが、蔡さんは中国という問題を日本で再発見しているんじゃないかと思うんです。彼は、ヨーロッパの大理石でつくられたような建築的な空間に対して、アジアは瞬発力なんだという意識を明確に持っているんですが、そんな火薬を使うなどの中国の伝統的な考え方や思想をはっきりと意識化したのは、中国ではなく日本だったと思うんです。だから蔡さんの中国的なものの見方というのは日本人にもわかりやすいところがある。中国で生まれて、日本で中国を再発見して、今ニューヨークにいる。ノマドというと格好よすぎるんですけど、要するに原籍はなくて、何となくアジアなんですね。今アジア美術をやるときに、どうしてもフィリピンとかインドネシアは全然違うんだという議論になるし、日本と韓国というのはやはりほかのアジアとは違うんだという議論になる。蔡さんは、そんなどの国にも属さないが、どこかにあるような「アジア」なのかもしれないって、これは私の願望でもあるわけですが。
村田: 彼はずっと中国にいたら、ああいうことがやれるやれないは別にして、少なくともああいうモチーフを用いなかったでしょうね。
山盛: それは確かでしょうね。

村田: あれは日本人で言えば、ジャポニズムを売り物にしているようなものですから。森万里子と同じなんですよね。

山盛: なるほどね。そういう意味ではそうですね。

村田: それが売りにできるっていうのは日本にいて、中国を相対化して、そしてさらにニューヨークに行って、遠くから見ているからあそこまで重層化できるんだろうなと思う。だから今中国で育っている人は蔡さんを見ていると思う。蔡さんを見て、自分たちの中国を相対化したような作品をつくっていて、それがけっこうヴェネツィアに出ていたのではないかという気はしますね。

山盛: そうですね。昨年のアジア・シンポジウムで、建畠晢さんが「そろそろアジアという名前が先行するのではなくて、アジアからヒーローが出なくてはだめなんだ」というようなことをおしゃった。つまり今はアジア美術が主体として動いていて、そこに複数の作家がいる、作品があるという状況では本末転倒だろうと。いくら議論しても何も出てこない部分があるから、そろそろ突出したヒーローが現われてこなくてはいけないのではないか、そういう時代に来ているのではないか、ということをおっしゃっていました。蔡さんがそうなるかどうかは別にして、やはりそういう時代に来ているのかな、という気はするんですが。

村田: ヒーローは別に出てこなくても……ぼちぼちやってるのがいいと思いますけど(笑)。そうそう、思い出したのが、アペルトの100人のうち20人が中国人で、5分の1ですよね。これって全世界の人口の中国人の占める割合と一緒ですよ。だから20人というのは、本当に正確に言えば実にちょうどいい人数だなと。


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