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山盛英司(朝日新聞記者) vs 村田 真
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新春対談 アートとそれを取り巻く状況をめぐって

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■美術館はだれが支えるのか

山盛: 99年の4月の都知事選のときに立候補を予定していた野末陳平さんが東京都現代美術館をたたいていました。私は、たぶん夕刊紙で読んだんですが、現代美術館の企画展「ひそやかなラディカリズム」について、「皆さん何だかわかりますか? 入りたいと思いますか? 」と問いかけていた。何でこの話を思い出したかというと、石原知事が「私は文化はあっていいと思う」と言う。この流れが何となくよくできすぎているような気がする。石原さんは御自身も絵を描いてらっしゃるし、お子さんが絵描きだったりすることもあって、そういうことに関するシンパシーがあるのかもしれないですけど。

村田: 江藤淳を館長にするって話もありましたね。

山盛: 村田さんとしては、あまり力のある人が関わらない方がいいと……。

村田: ああ、ほっといて欲しい(笑)。本当にひそやかにやっていればいいものだと思うんですよ、現代美術なんて。そういうところにお金をつぎ込むことが文化の成熟というものではないかしら。

山盛: しかし関わってきますよね。この前もNICAFの挨拶で、東京都庁のフロアを使って展示して、何なら自分が審査員になろうかってことまでおっしゃっていて。この人何かしたいの? パトロンになりたいんだろうか? って思ったんですけど。

村田: 文化のパトロン的な立場になろうとしてるんだろうなっていう感じはしますよね。

山盛: 19世紀くらいまでは、個人の巨大な資産でパトロンになって好き放題作家につくらせることがありましたけど、20世紀にはできないですよね。そうすると、大きなお金を出してくれるところというと、国家か大衆ですよね。つまり1000円ほどの入場料を払って来てくれる大衆がパトロンなのか、それともそういう人たちの税金を使っている公共事業というのがパトロンなのか。西武(セゾン美術館)の閉館もそういう問題がちらちらしている。西武が一般大衆を相手にしていたかというと微妙なところがあるんでしょうが、パトロンである大衆が、結局西武を支えきれなかったことは確かですね。一方で、セザンヌ展とか芸大美術館とかに人が入る。どうも入場者が偏在している。

村田: 99年の後半、上野では古美術展ばっかりが重なって、「金と銀」「法隆寺」、平成館の皇室の名宝展とか、立て続けに入りましたね。

■岡本太郎人気の再燃と万博30周年

村田: 岡本太郎は作品として評価するのは50年代半ばくらいまでだし、作品だけじゃなく著作を含めて様々な活動として評価できるのはせいぜい60年代前半までなんだけども、その後の動きにもすごく興味はありますよ。芸術としてじゃなくて、別の興味になりますけど。

山盛: 岡本太郎を考えるときにいつも浮かぶことがあるんです。前に関西の若い建築家の方々と話した時に、万博で建築は美術に二度負けたと言うんです。つまり丹下健三さんや磯崎新さんたちが設計した建物に突然「太陽の塔」が突き出てしまった。そこで一回負けた。その後、丹下さんの建築は壊されたのに、「太陽の塔」だけは残った、建築はそこで二度負けたと。

村田: なるほど。

山盛:
山盛英司氏

ただ、これにはおちがあって、その後「太陽の塔」の分身のようなパブリックアートが全国各地に造られるんですが、それらが一度でも建築に勝ったことがあるのか、というものです。「太陽の塔」以後、パブリックアートは建築の一部分としてしか認知されなかったし、建築と融合するものが好まれてきた。そういう意味では、万博の後、建築の常勝、圧勝だと思うんですが、あの段階では美術に二度負けたと言っている。岡本太郎の本来の考え方からいえば、自分はつくったものには興味はないんだと言っていたのだから、壊すべきだったはずなんです。ただ、そこが問題で、壊そうという方向だったのに、それを岡本太郎自身が残してくれと言った。そのあたりを、当時から美術評論家の針生一郎さんはきわめて潔しとしないわけです。
 もうひとつ、当時、反万博の運動があったんですが、岡本太郎のとった立場が、私にはいまひとつ判然としない。岡本太郎は万博に参加したことへの弁解がすごい。あの時代は今の時代から想像がつかないくらい政治の問題と美術の問題が重なっていて、そこに反万博運動というのがあった。そういう渦中で岡本太郎だけが権力としての万博に引きずられていたわけではなくて、それがいいか悪いかは別として、本当に櫛の歯を抜くように次々に美術家がああいう巨大な国家イヴェントに流れていった。しかも、そういった国家プロジェクトに参加しながら、そこに風穴を開けたかったんだと口々に言いながら参加していくんです。そうしたことから、言ってることだけを事実としてとるのではなく、実際に何が行なわれたかということを見なければいけないな、という気がしているんです。万博は、美術史的には忘れられて抹殺されていますよね。

村田: あれよりもまったく人が入らなかった東京ビエンナーレ「人間と物質」展のほうが美術史的には残ってるよね。語り草になってるし。

山盛: そうですよね。当時の『美術手帖(BT)』とか『芸術新潮』を見ても、万博の跡地問題が大きく扱われたりと、比較的冷淡ですよね。実は60年代後半くらいから70年代に向けてモノ派が動きはじめていますから、美術の本流はその流れなんですよね。そこからこぼれ落ちて澱のようにたまっている人たちがいる。例えば具体美術協会がそうだし、実験工房もそうです。具体美術協会なんか特にそうで、万博で50年代のリメイクをする。前衛があそこで火花を散らして解体していくわけです。ほかには若林奮さんの数少ないパブリックアートの作品のひとつが万博公園に鍵をかけたまま埋まってますよね。あれは若林さんの一番最初のパブリックアートの作品なんです。


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