Nov. 19, 1996 | Dec. 3, 1996 |
Art Watch Index - Nov. 26, 1996
【世界最大の現代美術展 《サンパウロ・ビエンナーレ》】 ………………● 名古屋 覚
【可視と不可視の狭間で
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第23回 サンパウロ・ビエンナーレ
第23回サンパウロ・ビエンナーレの展示風景。
日本代表の画家、小林正人の展示。 たわんだキャンバスと“具象の始原”を思わせる画面で、絵画の意味を問う。
アメリカ代表の巨匠、ソル・ルウィットの壁画作品。 極彩色の7つの星形。
世界の7つの地域からそれぞれ数名が参加する「ウニヴェルサリス」展での、
「アジア」の展示風景。
「ウニヴェルサリス」の「アジア」で展示した 韓国のジョン・スーチョン(全壽千)の作品は、 つぶした空き缶を敷き詰めた上に木でできた小屋を設置したインスタレーション(本文参照)。 写真は小屋の内部。床に繭玉を敷き、その上にビデオ・モニターなどを置く。
ノルウェーの作家、マリアンネ・ヘスケの インスタレーション。 左側の白い箱の外部と、右側の黒い箱の内部は氷。人がちょうど1人入れる。
ポップ調のインスタレーションはフランス代表のアーチスト、 1955年生まれのアラン・セシャの作品。
キューバ代表の女性アーチスト、 タニア・ブルゲーラスは宗教儀式のようなパフォーマンスを演じる。
サンパウロビエンナーレ http://www.uol.com.br/ 23bienal/
10th Biennale of Sydney: Jurassic Technologies Revenant
Africus - Johannesburg Biennale '95
KwangJu Biennale
'95 KwangJu Biennale
Oscar Niemeyer
WebMuseum: Goya, Francisco de
Picasso
Andy Warhol Museum Home Page
東京国立近代美術館
Sol Lewitt - Reference Page
Universalis
Profile: Cai Guo Qiang
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世界最大の現代美術展 ●名古屋 覚
日本から飛行機で丸一昼夜、地球の反対側にあたるブラジルのサンパウロで1年おきに開催される現代美術の大規模な国際展、サンパウロ・ビエンナーレが12月8日まで開かれている。「ビエンナーレ」とは隔年制の展覧会のことで、同様の国際現代美術展としてはイタリアのベネチアで開催されるベネチア・ビエンナーレ、オーストラリアのシドニー・ビエンナーレのほか、ともに昨年から始まった南アフリカのヨハネスブルク・ビエンナーレ、韓国の光州ビエンナーレなど、現在世界各地に10近くも存在する。
「美術の非物質化」をテーマに
今回のビエンナーレのテーマは「千年紀の終わりにおける美術の非物質化」。しかつめらしいが、要は、美術の表現形式が絵画や彫刻のように形のある支持体(作品を支え、土台となる素材。例えば絵画ならキャンバス、彫刻ならブロンズや大理石など)をもったものから、インスタレーション(展示空間にさまざまな物体を配置したり、大がかりな装置状のものを設置したりして、いわば空間そのものを作品化する方法)やビデオ・アートなど、形をつかみにくい形式へと移り変わってきている―ということなのだ。音声など視覚以外の感覚にもうったえる作品が増えつつあることも、意味していると考えられる。“造形”の意味の徹底的な追究がキャンバスのような従来の支持体の否定へとつながった軌跡を検証する、近・現代美術史の流れを意識した真剣な企画といえよう。 1国1名に絞られた参加国代表作家
ビエンナーレの中心は、参加各国代表の作家が展示する部門。参加作家が1国1名に絞られた今回、日本を代表したのは1959年生まれの画家、小林正人。昨年秋、東京国立近代美術館で開催された《絵画―唯一なるもの》展や、一昨年と昨年のVOCA展(平面の分野で有望な若手を紹介することを目的に毎年春、上野の森美術館で開催される展覧会)に出品して注目された。 問題のある新企画の展示
また、今回のビエンナーレでは、世界を西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、北アメリカ、ラテンアメリカ、ブラジル、アフリカ・オセアニア、アジアの7地域に分け、各地域から5〜7名の作家を選んで展示させる 「ウニヴェルサリス」という新企画も試みられた。「アジア」地域では神奈川県立近代美術館の酒井忠康館長がコミッショナーを担当。日本、韓国、中国、フィリピン、インドネシアから1名ずつ作家が選ばれ、蔡國強(中国)の紅白のちょうちんを重ねてつくった高さ5メートル近いドームを中心に、それぞれ充実した展示を行なった。 [なごや さとる/美術ジャーナリスト]
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『霧の中の風景』/ 『ユリシーズの瞳』
Filmography for Theo Angelopoulos http://us.imdb.com/M/ person-exact? Angelopoulos,%20Theo
Theo Angelopoulos
『霧の中の風景』
Vlemma tou Odyssea, To
『こうのとり、たちずさんで』
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可視と不可視の狭間で ●森田祐三
アンゲロプロスがギリシアの映画監督であることは誰もが知っているし、ギリシアがバルカン半島と呼ばれる国境をめぐる戦場に近接していることも誰もが知っている。だから、彼の映画の少なからぬものが、越境や亡命、あるいは境界をめぐる人々の葛藤を映していると信じることはさして的外れなことではないし、事実、そういって差し支えのなさそうな事態は数多く見受けられる。だが、越境であれ葛藤であれ、境界の存在によって初めて有効になる行為は、物語の上ではともかくも、運動様態としてはアンゲロプロスの映画には無縁であるということははっきりさせておかねばならない。境界というものが存在しているからそれを横断すればよいとか、あるいはそれを挟んで対峙すればよいなどという無邪気な確信は、いくらなんでも楽天的すぎるというものだ。この不幸な意識を映画史的に敷衍すればメロドラマと西部劇の受難ということになるが、とりあえずアンゲロプロスの映画が現在でも辛うじて映画足り得ている理由の一つが、境界というものに対する彼の繊細さにあることは間違いない。 可視の境界 いうまでもなく、越境や葛藤といった言葉で表現しうる事態は、スクリーンの上では距離の踏破と視線の交錯によって特権的に表わされる。男女の邂逅や別離は、両者の間の距離とそこで交わされる視線によって表象されるし、そのあいだの距離、すなわち障害の調節が物語の律動を刻むこともあれば、視線の演出が監督の力量を窺わせることもある。だが、銃弾が応酬される空間にしても、駆け寄る男女が踏破する距離にしても、両者の間の距離という可視的な境界が、実はショットの切り返しによって仮構されたものであり、向き合った視線の交錯がその距離を物語に相応しく構造化するものであることもあきらかだ。したがって、境界があるから越境したり対峙するのではない。映画においては、越境することや対峙すること自体が、ありもしない境界を捏造して越境や対峙という状況をもっともらしく見せてしまうのである。切り返しが必然的に仮構してしまうこういった葛藤と葛藤の解消が、長らく物語を表象するものとしての映画を支えてきたことは事実だが、どういう訳かそれに我慢のならなくなったものが映画を撮ることになるとどうするか。 不可視の境界 まず、ワン・シーン/ワン・ショットを使って切り返しを回避する。次に、越境という直角的な横断行為に対して、いわば「斜めの」横断─ 『霧の中の風景』の姉弟や、『ユリシーズの瞳』の映画監督のように、国境をなす川の流れに船をこぎだし、いつのまにか別の場所に現われる─が強調される。とりあえずこの二点によって、切り返しが捏造する可視の境界=距離に誘われて越境や対峙という葛藤の形に運動を従属させることがなくなる。では、距離も厚みももたない境界、例えば、切り返されるショットとショットの間、あるいは単にコマとコマの間のように、現に存在していながら「不可視」であるが故に、可視的な距離=境界を出現させる本来的な境界に対してはどう振る舞えばよいのだろうか。ここで無闇にキャメラを振り回すことは問題にならない。映画においては単にショットとショットを隣接させること自体が、その隣接に根拠を与えて自足してしまうことが問題だからだ。 可視の境界/境界/不可視の境界
例えば、『こうのとり、たちずさんで』のTVディレクターは、橋上の境界線上で「たちずさんで」いたが、彼は可視と不可視を取り違える二重の過ちを犯していると言わざるを得ない。つまり、国境という、地図の上では線で表わされはするが何処にあるのか解らぬ不可視のものが目の前の川幅のうちに具体化していることの奇妙さにまず気づくことがなく、さらに、その川の制度的等価物としての橋上の線を、今度は運動を束縛する具体的なものとして捉えるという優れて抽象的な態度をとっているからである。おそらく、距離も厚みもないものの上で「たちずさむ」ことができるのか否かということがそもそも問題となるのか、とは思ってもみなかったに違いない彼は、可視の境界と不可視の境界という両者の境界、距離も厚みももつことのない「不可視の」差異、に対しては全く無防備であり、そうであるが故に、幸いなことに少なからぬ幅をもっていた橋上の境界線上で片脚をあげたまま「たちずさんで」みせるという無邪気な行為にふけっていたのである。 [もりた ゆうぞう/映画批評]
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