Sep. 3, 1996 | Sep. 17, 1996 |
Art Watch Index - Sep. 10, 1996
【どこへ行くのか《IZUMIWAKU》】
………………●村田 真
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IZUMIWAKU Project 1996
村上タカシ
ID BOUTIQUE
IZUMIWAKU青空芸術市
開発好明のパフォーマンス
(上右、IZUMIWAKUのマーク、イラスト:村上タカシ)
「IZUMIWAKU Project 1996」 −村田 真 Art Information, Aug.6
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どこへ行くのか《IZUMIWAKU》 ●村田 真
《 IZUMIWAKU プロジェクト1996》は、夏休みに杉並区立和泉中学校で開かれた現代美術展。2年前の第1回展は、学校を美術館に変えたということで話題を呼び、以後、各地の小学校や幼稚園でも同様の試みが行なわれるようになった。それほど第1回展は新鮮で強烈なインパクトを与えたものだが、その分、第2回展への期待は膨らみ、いきおい見る目は厳しくならざるをえない。 アートと社会の距離を縮める試み
出品作家は、岡本太郎から無名の若手まで約30人で、韓国やヨーロッパのアーティストも参加。たとえば、学生服を花柄の布地で仕立てたID BOUTIQUE、校内に大きなお世話的標語を貼りだした押川東一郎、机につっぷした生徒たちの写真に偏差値をテープで流したテオフィル・ビリシュなど、学校を意識した作品が少なくない。 今回もっとも秀逸だったのは、和泉中学校の近くにあるシナプス画廊で関連企画として行なわれた《アパート太郎》展。シナプス画廊は古いアパートの6畳間を使った「お座敷画廊」だが、そこに岡本太郎の「太陽の塔」の模型(高さ145センチ)が鎮座していたのだ。これはこれは……もし岡本太郎が見たら、「なんだこれは!」と目をむいて喜んだに違いない。 [むらた まこと/美術ジャーナリスト]
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The Desire of Making the Invisible Visible −ニナ・フィッシャー& マロアン・エル・ザニ
作家紹介
展覧会の会場風景
オーラを撮影した写真
下の「オーラ」を撮影した部屋
オーラを撮影した写真
The Kirlian Aura Kamera http://www.compusmart. ab.ca/triune/kirlian.htm
Nikola Tesla: inventor, engineer, scientist
P-House / cafe seminar
「希望の都市に出会う、 |
信じるというテクノロジーを信じるか? ●四方幸子
対置される2枚の写真 スペースには、カラー写真が2点ずつ対で 展示されている。1点は、何の変哲もない家庭の室内もしくは屋外のスペースの写真。そこの住人らしき人物が入っている。もう1点には、まったく意味のわからない光のしみの ような不定形の形態が見える。ごくふつうに撮影された室内と、理解不能な不定形パターン。このような場合わたしたちは、これらの関係を類推しはじめる。日常において物事は、 たとえば因果律などという慣習によって安定的な関係を結ぶことが前提とされているため、既存の方法で片づけられない事態に直面すると、判断停止状態へ突入してしまう。だがこれはもちろんアートなのだから、そのような推論から断絶した彼方で2点の写真が恣意的に組み合わされていると考えるのが妥当だろう。しかしたとえそうであっても、そこには(いかに類推が困難であっても)何らかの意図やコンセプトによる関係性/反関係性が組み込まれているといっていい……。ベルリンの 若手アーティスト、ニナ・フィッシャー&マロアン・エル・ザニによるこの展覧会で観客は、まっさきにこのような予定不調和性にみまわれることになる。 浮上する写真の関係性 対になった写真の横にある小さなコメント(写真の人物による)によって、それら2点の写真の関係性が浮上する。じつはこれらが 同じ場所を同じ位置から撮影したものであること、そこに以前住んでいた家族が何らかの理由(失踪、死亡など)でいなくなったにもかかわらず(だからこそ)今もその部屋を大切にキープしていること、そしてその不定形な映像がなんと、いなくなった元住人のオーラを撮影したものであること。ニナとマロアンは、キルリアン写真という、その名もキルリアンというロシアの科学者によって39年に開発された(とはいえ1880年代にニコラ・テスラがすでに実験をしていた)有機物の電磁波を直接転写する技術によってこれらのオーラ写真を撮影したという。本当にキルリアン写真なのか、写っているのは本当にオーラなのか? それを信じるかどうかは重要ではない。わたしたちの眼に見える世界をカメラで撮影した写真とある写真を対置することによって、わたしたちが真実だと思いこんでいる世界を相対化し、複数のヴァリアントの存在可能性に開かれること、それが重要である。わたしたちが信じて疑わない世界像そして視覚(そして空間性)そのものが、歴史的、文化的においても非常に人為的なテクノロジーに依っていることが発見されるのだ(たとえば近代以前の視覚世界は今とまったく違うはずである)。 「信じることのテクノロジー」 写真の彼らは、家族という馴れ親しんだ間主観的な〈身体〉のなかで、オーラを今はいない家族のヴァーチュアルな実体と感じ、その痕跡や記憶を依りどころにして生きていることがわかる。社会システムがさまざまな可能性を排除することにより世界の複雑性を縮減する、としたニクラス・ルーマンはまた「信頼は、馴れ親しみを前提とする」(『信頼』)と述べているが、この展覧会において展開されているのは、何重にもしくまれた「信じることのテクノロジー」であり、それがいかに生活世界および社会において見事に機能しているかである。ニナとマロアンは、そこにささやかな亀裂を、いくつもさりげなく挿入する。何らかの時代的偶然性(もしくは権力)によって現代科学の表層からはずされたキルリアン写真をきっかけとして。 [しかた ゆきこ/美術批評家]
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