Aug. 27, 1996 Sep. 10, 1996

Art Watch Index - Sep. 3, 1996


【《ナルシスの変貌》─伊藤キム+輝く未来 】
 ………………● 熊倉敬聰

【篠山紀信写真展「食」 】………………● 椹木野衣

【ガブリエル・オロズコ展@ICA
 ノマディズムとは実のところ何だったのだろうか? 】
 ………………● 毛利嘉孝


Art Watch Back Number Index



ナルシスの変貌
伊藤キム+輝く未来
日時:
1996年7月6日
19:00-
1996年7月7日
17:00-
会場:
シアターX(カイ)
問い合わせ:
伊藤キム+輝く未来
Tel.03-3320-7217

伊藤キム

伊藤キム

《生きたまま死んでいるヒトは、死んだまま生きているのか?》を踊る伊藤キム
写真:高木伸俊





Salvador Dali
http://pharmdec.wustl.edu/
juju/surr/images/
dali/dali.html

A Docent's Tour of Salvador Dali Resources
http://www.empower.net/
dali/dalimain.html

《ナルシスの変貌》
─伊藤キム+輝く未来

●熊倉敬聰



舞踏の現在

「舞踏」─人類の舞踊史においても、最重要な身体表現・哲学のひとつを生み出した土 方巽、大野一雄以後、舞踏は今や、ポスト産業資本主義の世にあって、新たな変貌を遂げられぬまま、ますます失速状態にあるように思われる。
  そんな中、舞踏界出身のひとりのダンサーが、舞踏の新たな変貌を試みようとしている 。伊藤キム。彼は87年から舞踏家古川あんずに師事した後、90年を境として果敢 に日本やヨーロッパでソロ活動、あるいは他のアーティストたちとのコラボレーションを行なってきた。95年、「伊藤キム+輝く未来」を結成。必ずしも舞踏のスタイルに捕らわれず、モダンダンスや演劇までをも越境するダンスパフォーマンスを試みている。

伊藤キムの試み

そんなキムが、今年の7月、東京両国のシアターX(カイ)で、芸術文化地域活動「楽(らく)の会」のプロデュースの下、《ナルシスの変貌》(改訂版)を踊った。
  題《ナルシスの変貌》は、ダリの同題の絵から取られている。「うずき」「開花宣言」「水の階段」「クリスティーナの見た鳥」と四部構成のこの作品はまず、このダリの絵の中でうずくまるナルシスのポーズからインスパイアされたと思われる“うずくまり”の姿態から始まる。白塗りの不定形な「塊」から突き出す2本の羽の触覚。この身体の塊からうずき出す指・手の微妙な生物的蠕動が、やがて鋭角的なメカニカルな動きと結合し、ノイズィなリズムを刻み込んでゆく。と、突然「開花」。生まれ落ちた「世界」を吸い込み、取り入れる(精神分析学的意味で)かのように、周りの空間、自分の身体と見境なく、口唇的に摂取してゆく。
  そして「水の階段」。ジャズの音楽の流れ、ピアノの「音階」に誘われるかのように、流体のゆらぎの中を身体が歩み、たゆたってゆく。
  第四部「クリスティーナの見た鳥」(この題はアンドリュー・ワイエスの絵から取られている)とともにステージは一変する。ダンサーは、スキンヘッドに眼帯姿でスーツを着、「狂った博士」を演じる。エレクトリック・ギターのノイズ音とともに、手に持つ孔雀の羽を床に刺し、あるいはそれで自分の身体を撫でまわし、フェティッシュな快楽に興じる。と、音が変わり、今度は飛翔体を目で追う動きがそのままダンスへと変容し、最後には、何か“大きなもの”に翻弄されながらも懸命に闘う姿が提示される。そしてダンサーは静かにうずくまりながら、不敵な笑みを浮かべ、作品は終わってゆく。
  うずくまるある「一体感」からうずきだし、やがて世界に「開き」=生み落とされ、流体的環境の中をたゆたいながらも歩む、が、やがてフェティッシュな「オタッキィ」な知的快楽=狂気へと溺れてゆく。しかしそこに、何か天翔るものが訪れ、それを追ううち、“大きなもの”との闘いに入ってゆく。ここに例えば、戦後の日本人が置かれていた「モラトリアム的」環境とそこからのかすかな脱出の兆しを暗喩的に読みとること は深読みにすぎるだろうか。

舞踏の未来

東北の田圃の泥が育てた身体と、西洋近代の舞踊表現のズレを限りなく鋭敏に生き、それ自体を独自の身体創造に結晶させた土方。これからも「舞踏」が存続しうるとすれば、それは、現代の「ハイパーリアル化」されながらもさまざまな「リアル」な暴力を抱え込む「ポストモダン」社会に、いかに身体を闘わせ、それを新たな表現に作り上げていくか、そこにしかないだろう。
  伊藤キムはその闘いを今行なっている。

[くまくら たかあき/
フランス文学、現代芸術]

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篠山紀信写真展「食」
1996年7月19日−8月31日
キリンアートスペース原宿
Tel. 03-5485-6321

展示風景

篠山紀信写真展「食」、会場風景



キリンアートスペース原宿
http://kirin.topica.ne.jp/
gallery/harajuku/
harajuku.html

篠山紀信写真展「食」

●椹木野衣



「食材」がひしめく閉鎖空間

会場に一歩足を踏み入れた瞬間から、はっと息を呑む展覧会というのは、なかなかな い。たとえあっても、その驚きが最後まで持続するということになると、ほとんどお目にかかれないといってよい。ところが本展では、一見したとき受けたショックが、会場を出るまで途切れることがない。最初に受けた驚きが、これらの写真を見るためのたんなる導入なのではなく、これらの写真の本質にかかわることだからだろう。
  「食」をテーマに撮ってきた作品を一挙に展示した今回の試みが成功しているのは、ひとつにはその展示空間に対するアイディアの冴えゆえのことだろう。キリンアートスペースの横長の空間の壁面すべてを覆いつくした「食」の閉鎖空間は、磨きあげられた床、比較的低い天井と照明による多様な反射、パネルの光沢などとあいまって、いわば、食べることの「胃袋」をかたちづくっている。したがって、これらの写真を見るものは、食べ物を見ているつもりが、いつのまにか食べ物に飲み込まれてしまい、消化されてしまうのではないかという恐怖感を味わうことになる。ここは、これまで従順に食べられてきたものが、食らってきたものを食らいかえすための場所なのであり、したがって見るものはいつしか、一方的に見られるための「食材」と化してしまう 。

恐怖を呼び起こす和食のやさしさ、上品さ

いまひとつ注目すべきなのは、ここで篠山が被写体に選んだ「食」の数々が、すべて和食に限定されているということだろう。
  和食はしばしば、中華料理やフランス料理と比べて、見た目にも味わいでも、やさしく、上品であると特徴づけられることが多くはなかったか? しかし、篠山の写真を見る限り、そのようなことがまったくの幻想でしかないことがわかってくる。和食の特徴は、素材にあまり手を加えず、しつこくつきあわないことに由来するのだろうが、それをやさしさないし上品さと呼ぶのだとしたら、そのやさしさ、上品さとはすなわち、食材の命をまるごといただこうとするために手を加えるのを最小限に留めるということを意味する。
  滴り落ちる血を啜り、まだピクピク動いている肉をほおばり、骨と肉とのはざまから絞り出されてくる命の汁を、喉音を立てて飲み込む、その残酷さが、和食のやさしさと上品さの本質なのではあるまいか。
  「食」に対する日本人の感覚を抉り出した今回の試みは、わたしたちの「和」が、食材という他者に加えられる遠慮のない暴力によって保たれているのではないかという恐怖を招き寄せる。

[さわらぎ のい/美術評論家]

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ガブリエル・オロズコ展@ICA
1996年7月26日-9月22日
ICA, London
Tel. 0171-930-3647





Gabriel Orozco Reference Page
http://www.artincontext.com/
listings/pages/artist/r/
6ge40xmr/menu.htm

The Institute of Contemporary Arts (ICA), London
http://www-mice.cs.ucl.ac.uk/
local/artinstituitions/ICA.html

The Institute of Contemporary Arts (ICA)
http://www.gold.net/ica/

ガブリエル・オロズコ展@ICA
ノマディズムとは実のところ何だったのだろうか?

●毛利嘉孝



「都市」を書き換える悪戯

夏の間は、ロンドンのアートシーンはそれほど大きな動きがあるわけではない。実際に各ギャラリーや美術館のスケジュールを確認してみても秋に向けての小休止といったところだろう。その中で目立っているのはICAで開かれているガブリエル・オロズコの展覧会である。
  ガブリエル・オロズコの作風はしばしばミニマリズムという言葉で紹介されていることが多いが、実際の展覧会の印象は、「都市」を別の視線から書き換えていく悪戯のようなもので、そこはかとないユーモアに溢れている。
  たとえば1階のギャラリーで展示してあるのは、古いシトロエンDSの真ん中をそっくり切って左右の幅を縮めて1人乗りのロケットのようなシトロエンに改造したもの、4台の自転車を綺麗に四角形に組み立てなおした作品、そしてオロズコの体重と同じに作ったというゴム製の球形の黒いオブジェである。あるいは、廊下を利用して並んでいる写真のインスタレーションは、ベルリンの街で2台の黄色いスクーターが並んで駐車している様子を延々と撮した作品。説明によれば、1台はオロズコ自身がベルリンで使用していたスクーターであり、同じ黄色のスクーターを見かける度に隣に自分のスクーターを停めて撮った写真のシリーズらしい。こうした作品群は、都市では見慣れた物質からできているし、一見すると非常に自然な物体に感じられるのだが、よくよく見ると何か奇妙なゆがんだ時空を作り出している。これは、作家自身が都市に結局所属していないところから生まれているのだ。

「移民」として考える

オロズコはもともとメキシコ出身の作家。最近はマドリード、ベルリン、ニューヨークと転々としながら作品を製作している。シトロエンにしてもタイヤのようにも見えるゴム製のオブジェにしても、何よりもオロズコのセルフ・ポートレートであり、それは都市にとっては不可欠で有益なものでは必ずしもないかもしれない。しかし、だからといって、これらは完全なゴミとして捨てるには美的すぎるもの、何かひっかかりのあるものなのだ。
  こうした自分の都市における位置づけを、ノマディズムと呼ぶ批評家は当然いるわけだが、最近のインタビューで彼は「ノマドという言い方はグラマラスすぎるし、自分は単なる移民にすぎない」と語っている。もちろん、ICAの空間の中でオロズコの 作品はやはりノマディズムとしか呼びようのない意味を与えられている。しかし、もしノマドが移民の美学化として機能しているとしたら? オロズコの作品が、ある文脈において本当に都市から排斥されるゴミへと転じる可能性があるとしたら?
  この展覧会において考えさせられるのは、ノマディズムとして捉えられてきた彼自身の活動を彼自身が「移民」という言葉で考え直そうとしていることである。これは 、実際にノマディズムを許さなくなってきた最近の反動化しつつあるヨーロッパの移民政策と関連している、と考えるのはうがちすぎだろうか。

[もうり よしたか/
カルチュラル・スタディーズ]
mouri@dircon.co.uk

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