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【ミュンスター彫刻プロジェクト】 なぜ、カリン・ザンダーはダメなのか? ─異論、反論、オブジェクション |
村田 真 | |||||||
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nmp_j7月24日号の特集に掲載された拙文「ミュンスター彫刻プロジェクト1997」の記事において、同展出品作家の中で唯一カリン・ザンダーの作品について批判的に触れたところ、不当にも、だれからもどこからもなんの反論も寄せられなかった。内心ほっとしてはいるものの、この“非文明的”事態を前に、あろうことか当該記事の筆者本人が反論し、さらにそれに対して再反論を加えるという暴挙に出た。はっきりいってクルクルパ〜である。 | ||||||||
反論
当該記事において筆者は、ミュンスターの彫刻プロジェクトではサイト・スペシフィックな作品が多いとし、ハンス・ハーケらの作品を例に挙げて、「これらはいずれも(中略)『ここ』以外では成立しない」と書いている。ここまではいい。ところが続けて「『ここ』でしか成立しない作品ならなんでもいい、というわけでもない」としながら、カリン・ザンダーの作品を槍玉に挙げているのだ。批判的に言及するのであればその根拠を明らかにしなければならないが、筆者はこの作品に対し、「一見『なるほど』と思わせるが、しかし『だからなんなんだ?』といいたくなる」と、ワケのわからないことをほざくばかりである。「だからなんなんだ?」とはこっちのセリフだといいたい。 もう1度冷静に、カリン・ザンダーの作品「ミュンスター市の重力の中心1997」を見てみよう。彼女は、ミュンスター市の地理的な中心点を計算によって求め、その地点(筆者は「民家の玄関先」と書いているが、正確には集合住宅とカトリック女学校との境界線上)に直径130センチの赤い円盤をコンクリートで固定した。タイトルの「重力の中心」とは、もしミュンスター市を市境で切り抜いて1枚の複雑な形の板にしたとすると、その板をバランスが取れるように支える1点こそ重力の中心であり、またそれが地理的中心にほかならない、という意味である。 彼女はこのプロジェクトのために物理学者や大学教授らに依頼し、新たな計算方法を確立させて、きわめて精度の高い中心点を割り出した。その方法は、ミュンスター市境の2808カ所におよぶ屈曲点の正確な緯度と経度を求め、そのポリゴンをコンピュータ処理するというものである(詳細なデータと計算式がカタログに掲載されている)。誤差の範囲は直径130センチの赤い円に収まるというから、驚くほかない。
では、彫刻の視点から見ればこの作品はどう評価されるだろう。赤い円という単純明快な形象自体、ミニマル彫刻としても鑑賞に耐えうるが、それ以上にこの作品には大きな可能性が秘められているように思えるのだ。それは前述のように、カリン・ザンダーがミュンスター市を複雑な形をした1枚の板として捉えていることからもうかがえる。つまり彼女は、ミュンスターの地面に彫刻を置くというレベルではなく、ミュンスターという街自体をひとつの彫刻として捉え直す宇宙的な観点を導入したのである。
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再反論
筆者は、筆者からの反論に少々とまどいを隠せないでいる(そりゃそうだ)。ともあれ、反論の要点を整理しながら一つひとつ反駁していこう。 1. 筆者は、カリン・ザンダーが学者やコンピュータを動員して「緻密で膨大な」作業を経てきたことを強調している。
2. 筆者はまた、計算によって求められた地理的中心点が従来の街の中心とズレていることを明示した、と述べている。
3. さらに、その地理的中心点には「新たな価値が付与される」とも述べている。
4. 筆者はこの作品が、「ミュンスターという街自体をひとつの彫刻として捉え直す宇宙的な観点を導入した」と評価している。
また、この「赤い円」は「ここ」(=中心点)以外の場所にあっても無意味であり、そういう意味では「『ここ』でしか成立しない」が、しかしそれはミュンスター市内に限ればの話である。この作品コンセプトは基本的にどこの街にもどの国にも応用可能であり、市境や国境がある限りどこでも成立する。これは筆者の邪推にすぎないが、もしカリン・ザンダーがドクメンタに選ばれたとしたら、彼女はきっとドイツの地理的中心を求めたに違いない。なぜなら、よく知られているようにカッセル市はドイツのほぼ中央に位置しており、正確な中心点がカッセルかその近郊にあることがわかれば、アトラクションとしては最高であり、話題になること必至だからである。
うーむ、それにしても疲れるなあ、一人芝居ってのは。 |
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