日本でも相次いで監督作品が上映されつつあるイアン・ケルコフ。今後チェックが必要な要注意人物といっていいだろう。
1964年、南アフリカ共和国生まれ。反政府活動のかどで大学を追われ、今やサブカルチャー・シーンのメッカとなったアムステルダムに根拠地を置いて活動をつづけている。
変幻自在のしなやかさこそが映像作家ケルコフの身上かもしれない。主としてドキュメンタリーを撮ってきたことに由来するのだろうが、個々の作品ごとに――撮影の対象に従って――目まぐるしくスタイルが変貌することに驚かされる。時にMTV風に、オーソドックスなドキュメンタリー風に、過激なまでな攻撃性もしくは優しさを漂わせ……。
ケルコフの関心を一言で要約するなら、ふたつの世紀の狭間にある今日の世界、もう少し直截にいえば現在進行中の世紀末における肉体のメタモルフェーゼの行方ということになるだろう。ピアッシングやタトゥーを駆使して、エイズ時代における肉体の崩壊プロセスもしくは、その隠蔽工作の欺瞞を大胆に暴露するパフォーマンスを展開するロン・エイシーを巡るドキュメンタリーや、ケン・イシイなどのテクノ・アーティストの言葉を取材した『テクノ』なども、そうした彼の関心の系譜上にある。とりわけニューヨーク・アート・シーンの寵児マシュー・バーニーがロッテルダムの美術館での個展に際して敢行した荘厳かつグロテスクな野外行列のプロセスをドュメントした作品は圧巻で、二人の特異なアーティストの波長が合致した幸福な作品というべきだろう。ところで、その作品中でバーニーは「物語は私たちをより自由に、重力の囚われの境遇から脱出させてくれる」と語っている。その言葉に触発されたか、初のフィクション映画『アムステルダム・ウェステッド』をケルコフは完成させた。ドラッグやテクノ・ミュージックに溢れたアムステルダムの喧騒と頽廃に、これまで彼が培ってきた手法を駆使して肉薄するバッド・テイストな映画……。来日した彼へのインタヴューをお届けする。
――『ウェステッド』を見ました。ドラッグが私たちの肉体にもたらすようなトリップ感を映画を通して再現したい、というのがあなたの最大の野望だったのでしょうか?
もし私の映画が成功していたなら、答えはイエスで、失敗ならノーになる。冒頭のシーンは明らかにエクスタシーを表現している。ただ結局、観客がそれをどう受け止めるかによると思う。もちろんこの映画を通して実生活でのドラッグの使用を勧めているわけじゃない。私自身ももう使いたくないしね。 |
――テクノロジーの進展によって、あなたが実現させたいと望む映像の獲得がより容易になりつつあるとお考えですか?
デジタル・テクノロジー抜きに、この映画を作るのは不可能だった。当初は16ミリで計画していたけれど、もしそうなれば、色彩の強調、過激さを欠いてしまったはずだ。今回のようにユース・カルチャーを扱うメディアとしてはこれが最適に思えたわけで、どのような手法を使うかによって、映画の性質や外観が決定されるんだ。ただ、今日も“ソニー帝国”を訪問したけど、そこでは確かに素晴らしい技術が開発されつつある。だけど恐ろしく高価だ。もし大金持ちが協力してくれるならすぐにでも使いたいけど、不幸なことに現状では一部の人だけが、そして最も想像力に欠けている人があれらを使っている……。 |
――テクノロジーの今日的な状況は私たちにメディアの民主主義とでもよぶべきものをもたらす可能性はありませんか? さらにアムステルダムにおいてドラッグへのアクセスが容易であるという状況と何か関連づけが可能ですか。いわば“ドラッグの民主主義”はあなたたちに何をもたらしたのでしょう?
ドラッグは一時的な幻想を与えてくれるにすぎないけど、同時に何千年もの昔からシャーマンや神官が感覚を拡張し、別世界と交流するための手段として使用されてきた。そういう意味では同じことをデジタル・テクノロジーが実践しつつあると思う。私たちが所有しうる視覚がフレーム、つまり眼の制限(limitation)によって決定されるという原理は、ドラッグであれ、ハイテクであれ、動かしがたいからね。個人的にはインターネットには懐疑的だけど、私の周りにいる人々、例えば、アーティストやエディターは既存の自分たちの役割を崩し、ルールを壊そうとしている。制作者として、消費者として、あるいは奴隷としてさえ、自分たちに関する映像を、自分たちの手で、自分たちのために作る必要があるんだ。検閲や政府、学校の先生などの関与や制限を受けることなしにね。そういった意味で私はテレビ的な用法から逃れようとしている。それをビデオテープで行なうのは少しアイロニカルかもしれないけど。個々にカメラにアクセスすることで、パワーをもち、テレビ的な映像を制限できる。だから権力者はやがてカメラを禁止するかもしれないね。 |
――『ウェステッド』のラストシーンにネルソン・マンデラの肖像が登場しますね。
彼の肖像を部屋に飾るウインストンという登場人物は犯罪組織のボスだ。犯罪者ではあるが、パワーをもち、マンデラを尊敬している。ナチが虐殺を行なう一方でバッハやベートーヴェンを聞くのは矛盾じゃない。殺人者は怪物じゃなくて、人間なんだ。現在、南アフリカではマンデラを聖人のように扱う傾向があるけれど、これは民主主義を実現させるうえで危険だ。私の考えでは、権力をもつ人に対しては懐疑的である必要がある。それは日本の天皇でも同様だろう。芸術はさまざまな対象への批評行為を、刺激的に、そして微妙な方法で実践すべきだ。もちろん、同じ場面でタランティーノの名前を使ったのも、彼が現在の映画業界で崇拝の対象になりすぎてるからだよ(笑)。
[1997年11月13日 渋谷アップリンクにて] |