おそらく建築界では、あふれるばかりの豊穣な装飾と多色のモザイクにおおわれた巨大な壁画をメキシコ国立大学の中央図書館(1952年)に制作したことにより、強烈な地域主義の代表例として、せいぜいその名を知られるファン・オゴルマンの展覧会が、ワタリウム美術館で開催された。今回の展示がとりわけ興味深いのは、建築のメイン・ストリームからは周辺に位置づけられるメキシコを単に戦後における地域主義の担い手として片づけてしまうのではなく、様々な矛盾を抱えつつ、すでに1930年代の段階できわめて純度の高い合理主義的な建築を実現させた特異なフィールドとして紹介していることだろう。
展覧会の構成は以下の通り。夫婦でもあったメキシコ近代芸術の二人の巨匠の住宅、カーロとリベラの家(1932年)が、展示の主題になっており、第1部においては20分の1の模型や家具を置き、部分的な原寸大の再現を試み、加えて写真や図面などが概要を伝えてくれる。第2部では、ここに暮らしたカーロとリベラのドローイングやメモ、そして日用品などを通して、生活ぶりを浮かびあがらせる。余談であるが、メキシコ映画の『フリーダ・カーロ』(1984年)でも、実際にこの家が使われているシーンを確認することができる。第3部では、オゴルマンの他の作品について、生々しい筆の痕跡が読みとれる貴重な図面や写真を展示する一方で、残念ながらオリジナルではないものの、オゴルマン、カーロ、リベラの三者が残したすぐれた絵画と壁画をみせている。むろん、「神話」(1944年)や「ヴィーナス誕生計画」(1967年)など、特にオゴルマンの廃墟を思わせる建築画は、ほとんど知られていなかった作品なので、紹介するだけでも十分にその意義はある。
本展を訪れる者は、2度驚くことになるだろう。第1部では、メキシコという文脈からは想像も期待もしていなかった、あまりにも美しく、そして完成された抽象的な表現をもつ近代住宅に。これは当時わずか26歳だったオゴルマンが残したものなのである。しかし、こうした印象を裏切るのが、第3部における画家に転向した彼の描いた、あまりにも幻想的で、神話色の強い具象的な表現をもつ絵画とサン・ヘロニモの自邸(1953年)だ。
蛇がのたうちまり、鳥が、獣が装飾化されたその洞窟風の住宅には、オゴルマンが1920年代と30年代に住宅や学校のプロジェクトでみせた厳格なモダニストの肖像は完全に消えている。彼は自己の描いた幻想絵画のなかに住むかのように、自邸を設計したのである。ゆえに、われわれはこう自問せざるをえない。一体どちらが本当のファン・オゴルマンなのか? 彼は建築による社会改革に絶望し、幻想の世界に囚われてしまったのか、と。
だが、この問題設定は正しくない。どちらかが本当のオゴルマンであるというべきではないのだ。モダニズムは言うまでもなく、ヨーロッパというメキシコの外部から移植されたものにほかならないし、メキシコの伝統に回帰したかのように見える彼の幻想の世界もまた、同展を特集した『SD』(*)で多木浩二氏が指摘するように、むしろボマルツォの庭園やボッシュの絵というヨーロッパを媒介して獲得されたものなのである。だから、いずれの表現にも他者性が刻印されている。そうした主体形成を通して、オゴルマンはメキシコのモダニズムを真摯に生き、その挙げ句に引き裂かれてしまった。奇しくも彼は、同時期に日本で展覧会が行なわれている別の建築家、すなわち合理主義とファシズムを駆け抜けたテラーニと同じ最期を遂げている。建築家には珍しいとされる、自殺である。
ところで、メキシコの近代を理解させるというよりも、その困難さの断片を感じさせることが狙いであると思われる本展は、幾つかの偶然が重なって実現されることになった。建築家の伊東豊雄氏が別件で訪れたメキシコで、現地の建築家により何の予備知識もなく連れて来られたのが、このカーロとリベラの家だったのである。そのときに彼が受けた新鮮な驚きが原動力となり、スナップ写真をみせた多木氏を巻き込み、決して知名度の高いとはいえない住宅の展覧会を実行しようということになったのだ。したがって、ワタリウムという個性的な美術館ゆえに、実現したユニークな展覧会であるといえよう。 |