reviews & critiques ||| レヴュー&批評 |
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『エヴィダンシア』 ビデオで楽しむシルヴィ・ギエム |
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多木浩二 | |||
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シルヴィ・ギエムほどのダンサーはめったにいない。そのギエムを日本にいながら 今年はたっぷり見られるのだ。すでにいくつかの古典全曲を見せ、3年に一度の世界バレエフェスティヴァルにも出演しているが、さらに10月には全国を縦断して公演する。 ギエムのビデオはすでに何本かでているが、ここではギエム自身がプロデュースしてつくった『エヴィダンシア』を紹介しておこう。これはギエムが以前、フランスのテレビでプロデュースした番組である。この『エヴィダンシア』はギエムが好きなように構成していいと言われてつくった。このビデオは、1995年の暮れにフランスのテレビ・フランス・2で放映されて大きな話題を呼んだ。ギエムはこのビデオでダンスについてのなにがしかの思考とイマジネーションを自由に展開させる。ギエムはクラシックを離れ、また言葉も使うが、ごく単純な言葉しか使わない。かわりに彼女が選んだ5本のダンスを見せる。ギエムも踊っているが、フォーサイスその他のダンサーに踊ってもらう。シーンとシーンの合間に、黒鳥の衣装を着たギエムが出てくる。短い言葉が重なる。自分にとってのダンス、生とダンス、自分の存在を証明するもの、ダンスと運動、絶え間ないダンスの発見――。生命vieとダンスdanseの発音を組み合わせ、それを証明evidenceという語に近づけて表記し、ダンスはギエムにとって自己証明だと言いたいのである。 |
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ダンスの生まれる空間
それを見ながら思うのだが、ダンスは絶対に自立して成り立つというより、空間を吹きわたる風のざわめきのなかから発見されるようなものだ。ダンスは夢見る空間から生まれ、目覚めとともに消滅していっていいのである。ダンスは空間の幻影である。現象する空間のなかで、見いだされた身体を、巧みに掴まえること。それがダンスである。ギエムは動くと同時に動きと距離をおく。その境界で彼女は身体に問いかける。動きは問いをなし、答えをなす。普通、われわれは空間(舞台)とダンサーは別々であって、ダンサーが空間におかれると考える。しかしそうだろうか。空間はダンスによって生まれるのではないか。ダンサーの動きが周囲に空間を生みだす。しかしそれより重要なのは、ダンスが空間から生まれることである。空気が動くとき、その動き、すなわち風のなかからダンスが発生する。われわれは風の声を知っている。さわやかな風か、厳しい風か。熱っぽいか、醒めているか、その声から、生まれるダンスにも違いが生じる。これはギエムのダンスへの思考のひとつの神髄かもしれない。ダンサーはダンスするときに、自らを身体として獲得するのである。それは普通の身体ではない。特権的な身体である。現実の彼方に飛び去ること、それがダンサーの身体である。 |
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